2010年6月14日月曜日

大いなる者

 
今日は、こないだの続きです

この世界が、この世界の創造主であるとき

神は、存在しないのか?

神は、確かに存在しています

しかし、それは、今の皆さんが想像しているようなものではありません

ここでは、神ではなく、大いなる者という表現をする事にします

大いなる者は、確かに存在しますが、このものを表現することはできません

大いなる者は、確かに存在し、我々を導いてくれます

我々を生かしてくれています

しかし、彼を捕まえることはできません

それには、あまりにも言葉が不完全すぎるのです

それを表す言葉がありません

そして、もしそれを言葉にして現したら・・・

その瞬間、それはとても偏った、とても小さなものとして現されます

それは、感じるものであり、ともに在るものです

共に在るという言葉さえ適切ではありません

共にという言葉には、分離があるからです

貴方が、貴方自身、つまりマインドとしての貴方ではなく、貴方本体を感じ始めるとき・・・

それは、大いなる者を感じ始めたときでもあるのです
 

2010年6月2日水曜日

クリエイター

 
今日は「クリエイター」です

大いなるクリエイター、それは神と呼ばれています

しかし、我々は「神」という言葉を使うと、それを対象物としてイメージしてしまいます

神はたして対象物として認識できるのでしょうか?

我々は、教会で神の像や絵を見ます

お寺や神社で、神や仏をみます

もし、これを神としてイメージすると、そこに分離、つまり貴方と貴方以外の神が生まれます

これらを神としてイメージすると、それはとても小さなものをイメージします

何故なら、そこに置いてある像は、貴方を同じ位の大きさだからです

では、クリエイターとは、何でしょうか

それは、この世界全てのことです

貴方も、私も・・・

この世界は、常に創造され続けています

では、誰がこの世界を創造しているのか?

この世界が、この世界を創造しているのです

何か神なる者がいて、彼と分離した、つまり対象物としてあるこの世界を創造しているのではありません

この世界が、この世界を創造しているのです

この世界の中には、貴方も、私も、鳥も犬も、太陽も風も、全てをあります

この全てが、全てを創造しているのです

貴方と神は、一度も分離したことなどないのです

分離することすらできないのです

この世界が、この世界の創造主なのですから

我々もまた創造主であるという事です

我々は、我々自身を創造し、我々が関与するこの世界を創造しています

貴方や、鳥や、犬や、太陽や、風など全てが、全てを創造しているのです

全てのものが、全てのものを創造している、この次元に立つとき

そこには、垣根は存在しません

この次元において、全ては一つなのです
 

2010年6月1日火曜日

愚者

今日は「愚者」です

愚者とは、愚かな者のこと

この愚かとは、何であろうか

この世には、賢い者と愚かな者がいる

もちろん、間にどちらでもない多くの者がいる

賢い者は、富む

愚かな者は、だまし取られる

賢い者は、人から搾取する

愚かな者は、自分のことなど考えず、分け与える

賢い者は、まだ来ぬ未来を見据え、そこに生きる

愚者は、愚かであるが故、過去を知らず、ただ今を生きる

賢い者は、計算して笑う

愚者は、心が沸き立つが故笑う

賢い者は、周りを見て泣く

愚者は、ただ悲しいが故、涙する

そこに理由はない
 

無の補足

さて、もう少し補足です

前回のメールで、2元のイメージと、存在の次元の関わりについてイメージができたかと思います

ちょっと復習です

各々の2元の中心は、全て重なりあい、菊の花のように「0」を中心に平面を構成しています

2元の面の中心の「0」ポイントを、存在の次元(Z軸)が垂直にこれを刺し貫いています

2元の中心である「0」ポイントは、Z軸の入り口となっています

この入り口をくぐることで、人は実存の次元へと入ります

さて、実存の次元をどのようにイメージしていますか?

実存の次元とは、実は3次元で、ラクビーボールを縦にしたような形です

あくまで、イメージですよ (^-^)

貴方が「0」ポイントから、実存の次元であるZにはいると、貴方の意識は拡張し始めます

2元の平面からZ軸の上下に向かってふくらみ、拡張するのです

ちょうど、ラクビーボールの真ん中に「0」ポイントがあるイメージです

さて、これは一体何を意味しているのでしょう

それは、2元を超えるとは、2元を含むより大きな立体へと意識が拡張するということです

我々は、悟ると2元のない状態になると思いがちですが、実際はそれを縫合したしているのです

ただし、2元の平面に居るのではなく、自分の一部として、それを内側に持っているということです

さて、これとは別に、当初の質問である「ニュートラル」について

仏陀が説いた「中道」とは、間違いなく2元の真ん中に、全ての2元が交わる点が、覚醒のポイントだと説いています

しかし、ここには、いくつかの落とし穴があるのです

今まで説明してきたように、2元の中心は、確かに悟りへのポイントですが、2元の平面に貴方の意識がある時、貴方は単に2元の中心に居るだけだということ

そして、質問の「ニュートラル」

真の意味において「ニュートラル」に人がたどり着いたら、その瞬間存在の次元(源泉)へと貴方は吸い込まれます

しかし、この理解も非常に難しい物があります

通常人々がニュートラルにあると公言しても、それはやはり2元に居るのです

何故なら、「××しないように」しているからです

彼を悪く思うのは良くない、とか

彼女は・・・とか

つまり、抑圧しているのですね

抑圧ではない、真のニュートラルにたどり着く技法が、いままで開示されていませんでした

これが、Azizによって、もたらされたのです

瞑想の時によく私がリードする、Beingを使った瞑想方です

Beingの中心を貫き下に落ちる性質を使うのです

これにより、我々は「0」ポイントへと向かい、そして「0」ポイントから下へ、つまりZ軸へと向かうのです
ニュートラル、それは既に悟りを開いた者には、当たり前の境地です

何故なら、からはそこに居るからです

しかし、そこを目指す者が、真のニュートラルを理解しそこに行けることは非常にまれです

何故なら、好きや嫌いを抑圧することは知っていても、それらの力が完全に均衡し重力のないポイントを、知らないからです

知らない者が、そこに行き着く可能性は、非常に低いのです

仮にその側をを通ったとしても、知らないが故、それに気づくことがないのです
 

2元の補足

前回の2元と無についての補足です。

まず、前回2元と存在の次元をXY軸で説明しました

これは実は、XYZ軸で本来表現される物です

しかし、いきなり3つの軸を使うとメール(文字)では、難しいと思い、概略として2つの軸で説明しました

で、今回は、これを本来の3つの軸を使って説明します

それには、まず2元です

皆さんは、2元と中道の関係をどのように理解していますか?

ちなみに私は、魚の骨のような物だと思っていました

背骨が中道ですね

そして左右の小骨がそれどれの2元

中道という道があって、それが色々な2元の真ん中をまっすぐに通っている

しかしこれは、間違いでした

では、実際はどうか

全ての2元の中心は1点で重なっているのです

そうですねぇ・・・

例えば、菊の花

左右の花びらが、一つの2元です

そして、それは必ず真ん中を通っている

つまり、2元は必ずXYの交点である「0」を通ります

そして無数に存在する2元という棒が、XY平面を作っているのです

全ての2元の真ん中からは、この平面に垂直に「Z」軸が延びています

これこそが、存在の次元です

故に、XY平面の中心だけが、Z軸と繋がっているので、入り口と言うのです

貴方が、XY平面の中心に立つとき、貴方は未だ2元の中にいます

しかし、Z軸の入り口にも立っているので

そして、この入り口を通ることで、貴方はZ軸、つまり存在の次元へと意識をシフトするのです

その時、貴方はZ軸に居ますが、貴方は0ポイントにおいて2元を含んでもいるのです

さて、ここからは、少し話題が変わります

今回説明した、2元を超えて、存在の次元(Z軸)に入ると、喜怒哀楽が無くなるようなイメージをもってしまいませんか?

2元を超えるということと、無感動になると言うことは、まったく関係がありません

我々は、悟と聖人君主のようになるというイメージがあります

しかし、実態は全くその逆です

まず、集合意識から目覚めますから、「みんながやっているからこれでいいや~」と言うことに異をを唱えはじめます

それから、自分を防御する為に築いた壁を壊し、着ていたコートを脱ぐので、非常に繊細で感受性が豊になります

というか、壁やコートがなくなるので、直接自分自身に届くのです

これとは別に、常に自身を苦しめていた思考や感情、個人的には「妄想」と言う方がぴったりするのですが、それがなくなるので苦しむことが少なくなります

2元を超えるとは、それを置き去りにしてどこかに行ってしまうと言うことではありません

2元に巻き込まれている状態から向け出すということです

抜け出したからといって、2元が無くなる訳ではないのです

何故なら、物質世界こそが2元であり、貴方の体、思考、感情、これらはみな2元なのですから (^-^)
 

無はニュートラルか?

今日は、質問をいただいたので、それについて書こうと思います

質問は・・・

「無はニュートラルの状態ですか?」というものです

さて、ここで、この「ニュートラル」という言葉から私が受け取ったものは・・・

右でも、左でも無い、真ん中です

そう、仏陀が説いた、中道です

先ずは、この仏陀が説いた「中道」について話をしていきたいと思います

実は、仏陀が説いた中道ですが、これには秘密があるのです

ちょっと想像しながら読んでください

この世界は2元です

右側が嫌い、左側が好き、とします

その両方の真ん中に点が存在します

ちょうど、X軸の右と左、「0」が真ん中ですね

この、真ん中が中道です

ですが、実は、これは仏陀だから中道と呼べるのです

それは、どういう事か

「0」のポジションは、実は「無への入り口」なのです

では、無とは何か、もう少し座標を使ってイメージしましょう

X軸に垂直にY軸があります

このY軸が、実存の次元です

既に貴方がY軸に居るとすると、Y軸は、X軸の「0」を含みます

故に、Y軸に既に居る人は、Y軸の「0」である、つまりX軸の「0」をさして、そこは中道だと言うのです
ところが・・・

X軸に居る人から見ると・・・

X軸の「0」ポイントは、Y軸のほんの1ポイントにしかすぎません

X軸に居る人は、この「0」ポイント通って、Y軸へと入っていきます

故に、X軸に居る人にとっては、そこは未だ「2元の一部」であり、そこは実存へと向かう「扉」として認識されるのです

2元の真ん中のポイント、ニュートラルなその場所は、未だ2元の一部であり、そこは実存へと向かう秘密の入り口でもあるのです

では、我々が指し示す「無」とはなにか?

そこは、全ての形在るのが生まれて来る場所であり、全ての形在るものが帰っていく場所です

そこは、非常に豊です

形になる前の、全てのものが詰まっているのですから

これの香りを、かすかな香りに触れることができます

自分の内側を、繊細に感じると、その香りをかぐことができます

例えば、そこに美味しそうな「イチゴ」があったとします

貴方は、冷蔵庫の中にそれを見つけて「美味しそう」だと思うのです

この時に、内側を繊細に感じてください

貴方が、頭の中で「美味しそう」と思う以前に何かがあったはずです

その何かが、マインドをとおして「言葉」に翻訳されています

言葉という「形」になる前のもの

さて、ここで、もう一つ書きます

ちと長いですかね (^_^;

この真ん中のポイントから、Y軸に入る為の技法が、既に公開されています

それは、瞑想の時、鼻から入る呼吸に乗ってやってくるエネルギーを使う技法です

そのエネルギーは、肺で呼吸から離れ、地球の中心へと向かいます

このエネルギーの流れと共に、縦の次元へと入っていきます

このエネルギーに委ねることで、自分自身の内側へ深く入ることで、貴方はX軸の「0」ポイントへと向かいます

そして、このエネルギーは、「0」ポイントを通って、存在の次元へと流れていきます

このエネルギーの助けを借りて、貴方は「源泉」へと向かうのです
 

「ノー・シングネス(無)」

さて、今日のお話は「ノー・シングネス(無)」です

通常は「ナッシングネスn o t h i n g n e s s」と言うのだが、和尚はこれを「ノー・シングネスn o - t h i n g n e s s 」としたいと言った

では、nothingnessというとどういう状態をイメージしますか?

nothingnessというと、「そこに何もない状態」をイメージしてしませんか

そこから来る感覚は「空虚」です

しかし、我々が使う「無」とは、決して空虚ではない

無とは、全ての源泉を意味する

故に「物が顕れる前の状態」と理解する方が正しい

ここには、全てが詰まっている

ここから全ての事柄が顕れ出す

この無から全てが生まれる

だとしたら、どうしてここが空虚であれるだろう

無とは、全てを含んだとても豊かな状態だ

それは、まだ何かの形を取ってはいないが、形を取っていないからこそ、非常に豊だ

我々が瞑想で、時たまこの無へと入り込むことがある

源泉と言われている場所だ

全てが生まれる、その源

ここに入ると、人はリラックススする

自分自身が溶けて無くなる

正確に言うなら、リラックスが極限に達し、貴方を縛っている最後の固まり、つまり貴方自身が溶けたとき、それは顕れる

十全な暖かさの中、一切の緊張が無い状態で、形すら無くした貴方がそこに漂う

漂うという言葉さえ、適切ではない

何故なら、漂うと言うとき、漂う為の物、例えば海のような媒体と、そこに漂う貴方という2つがイメージされてしまうからだ

正確には、そこには何かを仕切る物は何も無い

それが無だ

無は、何も無いのではなく、形になる前の全てが詰まった状態だ

無という言葉は、そこに形となる物が「無い」故に「無」という

形が無いだけで、そこには形になる前の豊かな何かが充満している

2010年5月21日金曜日

引き延ばすこと

 
今日のお話は「引き延ばすこと」です。

さて、最近数日おきにメールを出しているのですが、何を話す?書くか非常に困るのです (^_^;

何か、自分の中で引っかかっているものがあると、それをトリガーにして書くのですが、それがない・・・

それで最近は、和尚の禅タロットを使わせていただいたます

これを1枚ひいて、そこからインスピレーション貰い書くようにしています

今日のカードは「引き延ばすこと」でした (^-^)

さて、この引き延ばすですが、我々は色々なことを引き延ばしています

良いに付け悪いに付け、ついつい明日にしてしまうのです

これを評して「今出来ないもは、永遠に出来ない」と言う言葉があります

引き延ばしてしまうと、ずるずると引き延ばし続ける事がおおいようです

何かをやろうと思い立ったら、思い立ったときにやるべきです

色々な障害が我々の前に現れます

「今これとやると、やろうと思っていたことが・・・」とか

「これをやるには知識が十分ではない」とか

色々です

では本当にやるべき事とは何でしょう

それは、どんどん後回しにしている事です

逆に言うと、どうでも良いことは、後回しにすると記憶から消えていきます

どうでも良くないこと、それは何かが引っかかっているので、後回しにしてもまた意識に浮上してきます

もし、意識上によく浮かび上がってくることで、後回しにしているものがあるなら、それを良く感じてみてく
ださい

それを、やるときっと大変なんです

それをやると、きっと自分の時間がそうとう割かれてしまううんです

それでも、浮上してくる

それに対する思い、何故それが何度も自分の内側に顕れるのか、それが貴方のどこから来るのか、それを感じてみてください

本当に必要なものは、何度でも浮かびかがってきます

満たされるまで、何度でも (^-^)

開花

 
今日は「開花」です

我々は、何故この世界にいるのでしょうか

私自身は、この世界にいる意味を見いだすことはできていません

見いだすことを手放してしまいました

何かをする為に、我々は、ここに来ている

何かをなす為に

実は、これは我々が持つ強迫観念です

何か、理由があるはずだと

そして、我々は、自分の都合のよい理由を見つけ出し、それに向かって何かをしようとし始めるのです

しかし、これは、自分自身とは全く反対の方向へと向かう事に他なりません

目的を持つ、それは、未来に何かを投影することですから

さて、この世界にいる意味が無いとすると、我々は一体何をしているのでしょう?

このことを、逆の言い方で表現すると・・・

目的を持たず、未来に目を向けないで在ることとは何か、です (^-^)

わかりますか

そもそも、目的とは、未来をという概念を作り出したマインドが、それをうまく利用する為に作り出したも
のです

予定していたとおりに事が運んだことなどありません

問題は、未来ではなく、今です

この世界にいる目的はありません

しかし、一つだけ、はっきりしていることがあります

それは、目覚めた状態で死ぬと生まれてこないということ

私は、この世界で生きることは、覚醒していようがいまいが大変だと思います

確かに、この世界を十全に楽しみたい

しかし、もう十分です (笑)

故に、転生しないようにさらなる深みを目指しているとも言えます

もう十分この世界は、堪能しましたから

そして、覚醒すると、生きることや死ぬことから解放されてゆきます

そして、再度無明を体験するために生まれては来ないことを理解するのです

開花、それは転生の終わりを告げるものです

ちなみに、昨日読んでいたOshoの本から

私は、毎日トラブルに見舞われている、内側は静かだが、外側では毎日トラブルが発生する

覚醒して以降、トラブルが起きなかった日は1日としてない
 

条件付け

 
今日のお話は「条件付け」です

我々は、気づかないうちに色々な条件付けをされています

そう、条件付けは押しつけれるものです

例えば、私は、日本人だ、アメリカ人だ

仏教徒だ、キリスト教徒だ

男だ、女だ

夫だ、妻だ

会社員だ、主婦だ、学生だ

などなど、色々な条件を身にまとっています

これ以外にも、道徳や行動基準などの条件付けもあります

では、これらの条件が付けられるとどうなるのか

 貴方は××なのだから、××をしてはいけない、とか

 貴方は××なのだから、××をしなければいけない、など

となるのです

身に覚えが、たくさんあると思います

条件付けとは、何かのラベルを貼ることで、それを盾に制限がひかれることをさします

我々は、生まれるとすぐにこれらを押しつけられ始めるのです

ここまでだと、「あ~そうかぁ」と危機感はまだ薄いと思いますが、根はもっと深いのです

最初押しつけられていた条件ですが、しばらくすると自分で条件を付け始めるのです

これが、大問題なのです

最初は、母親に「貴方はお兄ちゃんなのだから・・・・」と言われて、行動を制約されているが、そのうち
「僕はお兄ちゃんのだから、××をしなくちゃ」となる

「私は、主婦だから××を・・・」

「私は、夫だから××を・・・」

こうなると、自分から自分に対して条件を付け始めるからのだから大変です

さて、これがどんどん進んでいくと・・・

それを貴方は想像できますか?

それがどんどん溜まっていくと「貴方」ができるのです

今このメールを読んでいる「貴方」です

さて、貴方はこれを理解出来ますか

これを受け入れられますか?

自分自身の行動を、良く見てください

貴方の行動は、過去に誰かに言われたことや、自分自身で作り出した基準で動いていませんか

何度も繰り返す内に、無意識それらを行っている事に気がつけますか

本当の貴方自身が表面に現れる為には、この外側の条件付けの固まりが落ちる必要があります

貴方をくるんでいるこれらが落ちる必要があるのです

このことをスピリチュアルな世界では「貴方自身の死」と表現します

今行動や感情を司っている、条件付けでできあがっている(コンピューターのような)貴方がが死ぬと、
その内側の本来の貴方自身が顕れるのです
 
  
 

覚醒へのアプローチ(3)

 
さて、本日はアプローチの3番目

覚醒の状態に飛び込むです

先ずは、ちょっと復習から

先のメールに書いたように、覚醒にアプローチとして2つの事柄がある

・苦しみに繊細になり、自分が苦しんでいることに気が付く

・覚醒の状態を一時的に体験する

通常人は、自分が苦しんでいること自体に蓋をしてしまい、苦しんでいることを忘れてしまう

のど元過ぎればなんとらや・・・

これなどは、まさにそのこと

しかし、何世にも渡り苦しんでいると、いつかこれを見ざる得ない時がくる

これと正面切って対峙せざる得ない時がくる

この時から、人は道を模索し始める

道に入る前、そして道に入ると、色々な内的体験を重ねるようになる

この、内的体験は、一時的な体験である

何故なら、この体験は過ぎ去ってしまい、また以前の自分へと戻ってしまうから

故に一時的という

しかし、この体験は、我々が地図無き内側の探求の道標となる

この体験が、人に今まで味わったことのない、気持ちの良い状態があることを教え、人は、この体験を
するが故、今とは違う内的状態へと進んでいく

これらの状態を家にたとえるなら、家に窓あることに気が付き、外を見て

そして、窓が開くことに気が付いてこれをあけ、外の世界の香りをかぐ

しかし、未だ人は家の中にいる

さて、それでは、この後どうなるのか

それは、あなた自身が意を決して外に出るしかない

外に出て、今まで慣れ親しんだ家を後にするしかない

それは、誰かが行ってくることではない

ここが、瞑想をする事との違いとなる

リトリートなどで瞑想すると、今まで体験したことのない状態へと誘われる

マスターを通して、その香りを貴方はかぐことができる

より深くより濃密な香りがやってくる

そう、内側へと向かうことで、それは「やってくる」

しかし、家の外へ出ることは、「やってこない」

家の外へは、貴方が自分で出て行くしかない

これが、違いだ

これを、別な角度から書いてみる

我々は、1dayを通して、皆さんに内的状態を伝えている

座る瞑想、活動する瞑想、それらと我々の内側にあるエネルギー状態を皆さんに体験してもらう

我々を通して、何かが皆さんに向かい、それを皆さんが体験として、理解として受け取る

これによって、皆さんは一時的な体験、すなわち一瞥を得る

これを通して、我有りの状態を体験してもらい、それを深めることで、自分でその状態にいけるように
Workする

愛も同じ

これが、我々が行っている事

それは、皆さんがそこへ行く事が出来るようにすること

ここまでは、我々の体験と、我々を通して起こる何かによって、起こすことができる

もちろん、皆さんが、ハートを開き、我々に心を許すことで、それは起こる

そうして、皆さんは我有りや愛にたどる着く方法を学ぶ

しかし、この時点では、未だ人は家の中にいる

何故なら、これらの体験は一時的であり、必ず過ぎ去ってしまうからだ

そして、我々ができるのはここまで

覚者などがよく言う言葉で、「覚醒の淵まで連れて行くことができる」と言うのがこのこと

しかし、この淵に飛び込むことは、貴方しかできない

貴方を後ろから押すことは、誰にもできない

ここが大きな境目となる

貴方は、我有りの状態を知っている

その状態になることができる

あとは、その状態であることを、行うしかない

ここで注意していただきたいのは、その状態に居続けようと努力する事を指しているのではないというこ


この状態は、努力が止まると終わってしまう

ただ、その状態に留まることを決意しそこに行くだけ

これを指して、「貴方自身が、それそのもになる」と言う

最後は、貴方が自分自身で事を起こさなければならない
 
 

2010年5月11日火曜日

覚醒へのアプローチ(2)

 

さて、今日はリトリートのもう一つの重要な要素「覚醒の一時的な体験」について


我々は、生まれるとすぐに外側の世界を体験し始める


というか、外側の世界の一部である「体」にはいる


そして、外側の世界を探検し始める


この外側の世界とは、現象の世界


原因と結果の世界であり、常に変わり続ける世界


物質(物)で満ちあふれている世界


この外側の世界で暮らすうち、我々は目に見える物を見るようになっていく


すなわち、「指し示すことの出来るもの」のみを見るようになっていくということ


例えば、「あそこにあるジュース」と言うとき、「あそこ」という場所があり、そこに「ジュース」がある


では、内側の世界とは、何であろうか?


内側には、実は2つの世界が存在している


一つは、皆さんがよく知る「知識、思考、感情」である


我々は、頭で何かを考える


色々な知識を頭にため込む


そして、喜怒哀楽、色々な感情を体験する


もう一方は、これらとは別な世界


そう、覚醒に向かう人がよく耳にする「真我(魂)、ハート(愛)」など


これら二つには共通する事柄がある


それは、これらを指し示すこことができないということ


貴方の知識そのものを指し示すことができないと言うこと


思考や感情を直接指し示すことができないといいうこと


例えば、知識は頭に蓄えられていると言われる


しかし、私が知っているイチゴ(笑)を、直接指し示すことができない


それを、他者が直接見ることはできない


これと同じように、真我も愛も、これを直接指し示されることができない


では、この内側の世界の2つの違いとは何か


それは、外側の世界に連動しているかいないかである


たとえば、悲しい映画を見たとする


私は、自分の中に「悲しい」という感情を持つ


同じように、これを見た彼女も「悲しい」と言う感情をもつ


2人の「悲しい」は、決して同じではない


各自が生きてきたバックグラウンドが違うが故、決して同じではない


しかし、この映画を通して、「悲しいという状態」について、同じような感情を共有することができる


これが何を意味するか


それは、外側の世界の事象に連動して起こる事柄であるが故、同じような感覚を共有出来るのである


これがあるから、人はコミュニケーションを取ることができる


「美味しそうなイチゴ」といったとき・・・


美味しそうが何か、イチゴが何かがお互いわかる


では、もう一方の「真我、愛」などの事象はどうか


これらは、外側の世界に連動しているものではない


故に、これを指し示す事が、非常に難しくなる


例えば、我々が言う「愛」


全ての人は、これを内側に持っている


しかし、我々が言う「愛」が、内側のどの状態であるか、貴方は知らない


そして、これがそうだと指し示す事が出来ない


これが、覚醒に向かう時の難関となる


この指し示す事が出来ない何かを、つかみ、我がものとしようとするのがリトリートである


マスターのエネルギーとともに居ることで、彼が指し示せないものを、指し示す事で、徐々に人はそれを

理解し始める


それを思い出し始める


この時の状態を表現すると・・・


貴方は、外側の世界という家の中にいる


しかし、内側の窓を見つけ、ここから内側を覗いている状態


これが進歩すると、貴方は窓を開ける


そして、窓の外を直接眺める


そこから流れてくる、歌を聴き、においや風を感じる


そして、人によっては、身を乗り出してこれらを感じ始める


しかし、貴方は依然家の中にいる


故に、一時的と言われる


覚醒は、覚醒したか、していないかのどちらかしかない


グレーゾーンは存在しない


貴方が、完全に家から出て、これを後にしたとき、貴方は覚醒している


しかし、家の中にとどまり、窓から流れてくるくるものを感じているとき、それは未だ覚醒の状態ではない


一時的な、体験でしかない


何故なら、貴方は依然家の中にいるからだ


しかし、この一時的な体験が、非常に重要になる


これを体験することで、人は新たな状態を味わい、さらなる深みへと向かう事が出来る


ただ、気をつけなければならないのが、この一時的な体験を、自分の状態を勘違いすることだ


その状態が永遠にあり、自分がそこへシフトした状態と、単に一時的にその香りをかいだことは、全くことなる


精神世界にはよく「私は××の体験をした」「他にも××の体験を・・・」とそれを人に認めさせようと躍起になっている人がたくさんいる


既に過去に過ぎ去った体験など、何の役にも立たない


今、自分がどういう状態にあるかが重要なのだから


一時的な体験とは、道を歩む上での「道標」だ


これを得ることで、内側の地図無き道に「道標」を持つことができる


この「道標」を頼りに、人は内側の暗闇を進む


道標を得ては進み、また得ては進む

 

 

2010年4月30日金曜日

覚醒へのアプローチ(1)

 
こんにちは、みのるです (^-^)

今回は、覚醒に向かうアプローチと、我々が行っている1dayと、皆さんについて書こうと思います

前回のメールに続いて、色々な痛みや内的状について書こうと思っていたのですが、そもそも瞑想会で何が行われているのか、そして各人は何をしていくのかについて、書く方が良いと感じました

覚醒に向かうアプローチの中ので、主となることは、以下の3つです

  ・苦しみに繊細になり、自分が苦しんでいることに気が付く

  ・覚醒の状態を一時的に体験する

  ・覚醒の状態に飛び込む

全ての覚醒のアプローチは、表現の違いはあれ、この3つが柱になっています

では、1番目の「苦しみに繊細になり、自分が苦しんでいることに気が付く」から見ていきましょう

通常人は、自分が苦しんでいることに蓋をして、それに意識的にならないようにしています

ところが、何世にもわたりこの状態にあると、あるところでピークがやってきて、これを見ざるえなくなります

こうした人々が、これらの苦しみから逃れようと、意識的に模索を始めるのです

そうして、道へと入ってきます

道に入るとき、普通はマスターや既に道の先を歩む者の所に行き、案内を求めることになります

これについては、良く聞かれる格言「真に道に入るとき、マスターは現れる」というのがあります

さて、それではマスターの元に行くと何が起こるのでしょう

マスターとは、既に大いなる存在と繋がっている者のことです

覚醒という地図無き道の地図を持っている者です

人は、この者といることで、この者を通して大いなる者と繋がることができるのです

そして、より最短な道順で、覚醒へと向かう事ができるのです

さて、これとは別に、道に入ると瞑想を行うことになるのですが、ここで何が起こっているのでしょう

内側に入るとは、今まで見てこなかった自分の感情、思考、エネルギーに意識的になるということです

これらに意識的になると言うことは、それらと面と向かって対峙すると言うことです

今まで見てこなかった、痛みや、不快なエネルギー、常に流れ続けている思考、これらを見はじめることです

それは、ある意味無意識のときより辛い作業になります

たとえるなら、貴方が肩こりだったとします

しかし、自分が肩こりであることを知らない人は、肩がこっているとは思っていません

しかし、これを意識すると、つまり肩がこっていたい事に気がつきはじめると、今まで、気にならなかった痛みを、痛みとして認識するようになるのです

これと同じ事が起こります

繊細になればなるほど、痛みをより繊細に感じるようになります

もちろん、これらの痛みの元を解放したり、ヒーリングを行うことでこれらを解放していきますが・・・

痛みそのものは、果てしなく深いものです

では、何故これらを見つめる作業をするのか

それには2つの理由があります

自分自身により繊細になるとは、内側にある今まで気が付かなかった状態に気が付けるようになるということです

この時、人々は2つのことに気が付けるようになります

一つは、今まで書いてきた痛み

そして、もう一方は、自分自身、愛、至福のエネルギーなど

これら2つは、それぞれに意味を持っています

自分自身、愛、至福のエネルギーなどについては、次の「覚醒の状態を一時的に体験する」の中で書いていきます

もう一つの苦しみを繊細に感じる

これは、貴方の渇望を目覚めさせる起爆剤になるのです

深く入れば入るほど、気持ちの良い状態になります

しかし、未だそこに留まれない為、人々は表層に戻っていきます

故に、深く行けば行くほど、より深い至福を体験し、深いが故に表層に戻るとそのギャップが大きくなります

この開きが、さらなる深みへと向かいたいという、至福の状態に留まりたいという渇望を生み出すのです

そうして、偉大な冒険者が、さらなる深みへと向かうのです

これが、1つめの事です
 
 

2010年4月16日金曜日

両極を超える

 
今日は「楽しむ」です

さて、皆さんは色々なことを楽しんでいると思います

ですが、よく注意してみると、それと同じ位嫌なこともあるはずです

それが何故起こるのかは、前に書きました

そうでう、2元だからです

通常我々は、2元の片側の「楽しむ」を行っているのです

ですから、当然、楽しみのあとは「苦しみ」がやってきます

楽しさがピークを迎えた後、それが薄れていくとに気が付きませんか

そして、どこかのタイミングで苦しみに変わっていることに

2元の片側の「楽しみ」を追い求めると、必ず対局へと移動するのです

では、覚醒とは何か

それは、ある意味でこの2元を超えることです

これだけではないですよ

ですが、目覚めることで、これらを超えていきます

目覚めるとは、無意識から意識的になることです

自分に起こっている事に意識的になることです

これによって、2元を見つめ始めるのですね

そして、これらを超えていく

超えていく方法は、いくつもありますが、その一つに「両極を受け入れる」というものがあります

通常我々は、苦しいと、なんとかこれから逃れ、苦しみが来ないようにしようとする

しかし、何度も書いているように、片側の極だけ来ないようにできないのです

では、どうするか?

この世界は2元であること、片側だけに留まれないことを、真に受け入れるのです

これが起こると、貴方の中で何かが起こります

(実際には、徐々に受け入れていき、ある時完全にこれを受け入れるのが、多分一番多いケースでは
ないでしょうか)

2元を受け入れた時、何が起こるのか

それは、2元との間にギャップ(隙間)ができるということです

この隙間が、貴方と2元を隔てます

今まで、2元に巻き込まれ一喜一憂していましたが、ギャップできることで貴方はこれと距離を置くこと
ができるようになるのです

さて、ここまだ書くと何か、別なところで同じようなことを聞いた気がする方も多いのではないでしょうか

ステートオブプレゼンス、僕の言葉では「自分自身に気が付いている状態」、もしく「自分自身で在る状
態」です・・・

自分自身に留まるとは、別の角度からこれを見ると、自分自身に留まることで、感情や思考との間にギ
ャップ作ることです

では、このプレゼンスによるギャップと2元を受け入れた時のギャップの差は何か

それは、2元全体を超えようとしていることです

2元による「楽しみ」や「苦しみ」を超えた時、一体そこには何があるのでしょう

それは、これらの三文芝居(「楽しみ」や「苦しみ」)から離れるということです

そこから離れた時、貴方は静けさの中にいます

そう、瞑想でたまに味わうあの静けさです

瞑想で、深く入る時味わう静けさ(暖かさ)

瞑想に深く入るとは、感情や思考が徐々に停止していくこと

そうして、貴方は、ふと気が付くのです「なんて静かなんだ」と

2元を真に受け入れた時、何かが起こります (^-^)

それは、言葉では伝えられない何かです (^-^)
 

2010年4月15日木曜日

比較

 
今日は、比較について

これもまた、精神世界ではよく聞く言葉ですね

「比較が苦しみを作り出している」などとよく言われています

比較が苦しみを作ることは、既に皆さん知っていると思いますが、復習を込めて少し書きます

その後で、比較の仕組みと昨日の2元との関連を書きます

まず、一般的に言われている「比較が苦しみを生む」ですが、これは読んでそのままです

誰かが自分より良い家に住んでいるとか

彼には、優しい彼女がいるとか

A君はたくましいが、B君はひ弱だとか

この、比較とは、2つの事象の「差異」に注目することです

では、何故苦しむのか

それは、自分と自分以外を比較するからです

他者と自分を比較し、自分に無いものを見つけ、その感情に巻き込まれてしまうからです

優越感も、考え方は同じですね (^-^)

では、ここから本題

比較とは、どういう仕組みで起こるのか?

これについては、その根源をたどると、この世界が「思い」「空間」「時間」「物」の順で創造されたことによるのですが、これについては、また別の機会に書きます

今日は、純粋に比較する時何が起こっているかです

まず、比較とは2つの事象を比べることです

今貴方の目の前に、イチゴ(笑)が出てきたとします

ここで、比較がおこるのです

ちょっと前まで、貴方の前にイチゴはありませんでした

そこにイチゴが現れる

この2つの事象の差異を、我々が認識することから比較が生じます

つまり、何かが変わることで、その差異を認識することが比較です

例えば、Aの棒を見ています

この時は、ただ棒があります

しかし、この後視点がBの棒に移ると、とたんに比較が始まります

短い、太い、黒いなどなど

これが、比較が起こる理由です

さて、ここまで理解すると、今日言わんとすることに気づかれる方もいらっしゃると思います (^-^)

この比較、それは物事の変化に対する我々の気づきです

そして、この変化は、物質世界にいる以上避けられないと言うことです

何故なら、この物質世界は「常に変化し続けている」からです

一つも永遠に変化しない物はありません

そうすると、どうなるか?

比較を辞めようとしても、それを達成することはできないと言うことです

比較を止めることはできません

それを行おうとしても、それは抑制でしかなく、内側に爆弾をため込むだけです

もし、貴方が真に比較を止めるなら、それは死んだ時です

何故なら、貴方自身も常に変わり続けているからです

さて、ここまで読んで、絶望しないで下さいね

止める事はできませんが、超える事は出来ます

ここら辺から、「2極を超える」と言うところに少しづつ繋がっていきます

ですが、今日は昨日の2元と、今日の比較についてもう少し

昨日2元のことを書きました

2つの極が必ず存在するということ

好きと嫌い

大きいと小さい

などなど

これらの2元は、そうです「比較」によって成り立っているのです

比較する事で、2つの極が生まれるのです

そうすると・・・

2元も、比較と同様止める事は出来ないと言うことです

そして、古来からこれに気がつき、なんとかしたいと四苦八苦した人々がこれを超えていきました

それが、覚者と言われる人々です

そして、瞑想は、そこへと向かう技法です (^-^)

2010年4月14日水曜日

2元

 
さて今日は2元について

苦しみの源、つまり何が苦しみの根源か?、と言うことについて、精神世界では色々と言われています

その根源の中から、今日は2元を取り上げてみます

色々な書物を読んでいると、外側の世界は2元でできているとと言うようなことが書かれています

2元とは、端的に言うと2つの極を持つと言うことです

好きと嫌い

大きいと小さい

男と女

太陽と月

などなど

このように、必ずペアとなる正反対の事象が存在することをさして2元と言います

2元がどうやって誕生したかは、別の機会に書くので、まずはこの2つの極の仕組みを見てみましょう

これをしっかりと理解することが、自分自身の進化を加速させます (^-^)

では、例題です (^-^)

まず、貴方が誰かを好きだとします

この時、貴方が嫌いという感情を誰に対しても持っていなかったとしたらどうなるでしょう?

嫌いという感情を持たない時、その時好きとという感情が貴方の中に存在するでしょうか?

例えば、長い棒と短い棒

短いが無い時、長いが存在するでしょうか?

これが、2元のカラクリです

これらの両極は、必ずペアで存在するのです

ですから、貴方が誰かを好きな時、それを同じ位の嫌いが、貴方の中に存在すると言うことなのです

その嫌いは、まだ表面に出てきてはいないかもしれませんが、それは確実に貴方の意識下に存在するのです

これを端的に表した日本語があります

可愛さあまって憎さ100倍(笑)

貴方が、とても好きな彼のことを、とても怒るのは、好きがそれほど高いと言うことです

もし、それほど好きでない人なら、その人に対して、それほどに怒ることはないでしょう

2元、それは2つの正反対の極を持つ思考、感情、事象などの事を指します

覚醒し、これらを見極める中で、人はこの2元を超えていくことになります

何故なら、好きだけに、人は留まることができないからです

喜びだけに留まることができないからです

必ず、裏側に反対の極が存在し、何かのタイミングで振り子が振れ、貴方は逆の極へと向かってしまうからです

これらのことを、自分の内側の体験として見る時、それを超えたいと思うようになります

2元の片側だけを、落とすことができない事に気がついた時、それを超えるしかないことに、気が付くからです

今日は、ここまで (^-^)
 

2010年4月13日火曜日

外側の世界と内側の世界

前回、1dayのお誘いと一緒に「物事を楽しむ」事について書いたら、3人の方から質問を頂きました (^-^)

さて、どこから書いていこうか、かなり悩むのですが、先ずは我々の状態をざっくりと理解していただければと思います。

我々は、今ここに生きて生活しています。

そして、何かの縁で内へと向かうプロセスに入り始めたわけです。

ここで、よく使われる言葉が、「内側の世界」と「外側の世界」です。

「外側の世界」とは、言わずもがな、皆が今まで慣れ親しんできた世界です。

宇宙があり、星々があり、太陽があり、地球があり、日本があり、ビルが建ち並び、電車がとおり、学校があり・・・

そこには、多くの人々や動物がいます

これが、外側の世界

別名、物質世界です

ここでは、2元の法則が全てにおいて適応されています

が、これについては、後ほど書きましょう

今回は、我々の状態について (^-^)

さて、それで、外側の世界が、わかったかと思いますので、内側の世界について

「内側の世界」とは、目をつむって、外側の刺激から離れた時に現れる世界です

では、内側はどうなっているのか?

これを外側から、順を追って書いてみます

物質世界 → 思考 → 感情 → 魂

です

色々な解釈があります

見る角度やその方の繊細さでも変わりますが、わかりやすく書くなら、先ほどのようになります

一番外側に、物質世界があります

その次から内側の世界です

内側の一番外側に、思考の層があります

その奥に感情の層があり、中心に魂が存在しています

これを、刺激を例に感じてみましょう (^-^)

物質世界で、皆さんの前に「イチゴ」が現れたとします

これを、目と耳と鼻を通して刺激として我々は受け取ります

すると・・・

思考が動き始めるのです

「お、うまそうだ」

「食べちゃおうかな(^-^)」とか

また、それとは別に「勝手に食べると怒られちゃうかな」とか

そして、これの思考を受けて感情が動き出します

美味しそうだという思考から喜びや楽しみの感情が、怒られちゃうという思考から怒りや痛みの感情が・・・

そして、最奥でこれら全てを見守り存在している魂としての自分自身(真我)が存在ましす

先ずは、自分の内側を見てください

物質世界の変化(無いところに、イチゴが現れる)に対して、皆さんの五感が反応し刺激としてそれを内側に運んでいることを

それを受けて、思考が活動し始め

その裏側で、すぐに感情が作動し始めることを

そして、これら全てを知っている人がいることを (^-^)

貴方が、内側を見る時・・・

貴方が感じたり見たことを、内側の誰かが知っている訳です

貴方は、「お、確かに思考が動く」などどそれを見ます

この時、それを見、それを知っている人は誰なのでしょうか?

これが、悟りです (^-^)

先ずは、外側の内側の世界と内側の世界についてでした (^-^)
 
 

2010年4月7日水曜日

両極(2元)を受け入れる

精神世界の色々な書物で「両極」の事が書かれている

そこには、これらが苦しみであることや、これらをを超えることについて書かれている

ここで、我々は注意しなければならない

確かに、この極みを超えることはできる

しかし、超えることと、無くなることは、違うと言うことを真に理解する必要がある

覚醒し、これらの極みを超えた人に、この極みが無いかというと、そうではない

何故なら、物質世界そのものが2元であるからだ

そして、体とマインドは、この物質世界そのものだから

故に、超えることとはできても、それが無くならないことを理解する必要がある

さて、ここで我々は、この極を超えようとするのだが、その奥をもう一度よく見極める必要がある


奥底では、超えることではなく、この極みから逃ようとか、これを消そうとしてはいないだろうか

極から逃れ、これを消す為に、これらの極を超えようとしてるなら、決してこれを超える事は出来ない

何故なら、2元は、この物質世界の本質であり、マインドそのものであるのだから


我々がこれを超える為に、行うこと

それは、2極がこの物質世界の本質であり、無くならないことを真に理解し、この2極としかと対峙することだ

しかと対峙して、これを真に理解する時、受容が始まる


無くならないことを受け入れる

この時、人は、この極を超える

無くならないことを受け入れる事で、これを超えていく


しかし、これを超えても依然極は存在する

しかし、これを超えたるが故、人はそれに左右されなくなる


真に対峙してそれを認め、そして受け入れる

これが、超えることの秘密だ