2010年6月14日月曜日

大いなる者

 
今日は、こないだの続きです

この世界が、この世界の創造主であるとき

神は、存在しないのか?

神は、確かに存在しています

しかし、それは、今の皆さんが想像しているようなものではありません

ここでは、神ではなく、大いなる者という表現をする事にします

大いなる者は、確かに存在しますが、このものを表現することはできません

大いなる者は、確かに存在し、我々を導いてくれます

我々を生かしてくれています

しかし、彼を捕まえることはできません

それには、あまりにも言葉が不完全すぎるのです

それを表す言葉がありません

そして、もしそれを言葉にして現したら・・・

その瞬間、それはとても偏った、とても小さなものとして現されます

それは、感じるものであり、ともに在るものです

共に在るという言葉さえ適切ではありません

共にという言葉には、分離があるからです

貴方が、貴方自身、つまりマインドとしての貴方ではなく、貴方本体を感じ始めるとき・・・

それは、大いなる者を感じ始めたときでもあるのです
 

2010年6月2日水曜日

クリエイター

 
今日は「クリエイター」です

大いなるクリエイター、それは神と呼ばれています

しかし、我々は「神」という言葉を使うと、それを対象物としてイメージしてしまいます

神はたして対象物として認識できるのでしょうか?

我々は、教会で神の像や絵を見ます

お寺や神社で、神や仏をみます

もし、これを神としてイメージすると、そこに分離、つまり貴方と貴方以外の神が生まれます

これらを神としてイメージすると、それはとても小さなものをイメージします

何故なら、そこに置いてある像は、貴方を同じ位の大きさだからです

では、クリエイターとは、何でしょうか

それは、この世界全てのことです

貴方も、私も・・・

この世界は、常に創造され続けています

では、誰がこの世界を創造しているのか?

この世界が、この世界を創造しているのです

何か神なる者がいて、彼と分離した、つまり対象物としてあるこの世界を創造しているのではありません

この世界が、この世界を創造しているのです

この世界の中には、貴方も、私も、鳥も犬も、太陽も風も、全てをあります

この全てが、全てを創造しているのです

貴方と神は、一度も分離したことなどないのです

分離することすらできないのです

この世界が、この世界の創造主なのですから

我々もまた創造主であるという事です

我々は、我々自身を創造し、我々が関与するこの世界を創造しています

貴方や、鳥や、犬や、太陽や、風など全てが、全てを創造しているのです

全てのものが、全てのものを創造している、この次元に立つとき

そこには、垣根は存在しません

この次元において、全ては一つなのです
 

2010年6月1日火曜日

愚者

今日は「愚者」です

愚者とは、愚かな者のこと

この愚かとは、何であろうか

この世には、賢い者と愚かな者がいる

もちろん、間にどちらでもない多くの者がいる

賢い者は、富む

愚かな者は、だまし取られる

賢い者は、人から搾取する

愚かな者は、自分のことなど考えず、分け与える

賢い者は、まだ来ぬ未来を見据え、そこに生きる

愚者は、愚かであるが故、過去を知らず、ただ今を生きる

賢い者は、計算して笑う

愚者は、心が沸き立つが故笑う

賢い者は、周りを見て泣く

愚者は、ただ悲しいが故、涙する

そこに理由はない
 

無の補足

さて、もう少し補足です

前回のメールで、2元のイメージと、存在の次元の関わりについてイメージができたかと思います

ちょっと復習です

各々の2元の中心は、全て重なりあい、菊の花のように「0」を中心に平面を構成しています

2元の面の中心の「0」ポイントを、存在の次元(Z軸)が垂直にこれを刺し貫いています

2元の中心である「0」ポイントは、Z軸の入り口となっています

この入り口をくぐることで、人は実存の次元へと入ります

さて、実存の次元をどのようにイメージしていますか?

実存の次元とは、実は3次元で、ラクビーボールを縦にしたような形です

あくまで、イメージですよ (^-^)

貴方が「0」ポイントから、実存の次元であるZにはいると、貴方の意識は拡張し始めます

2元の平面からZ軸の上下に向かってふくらみ、拡張するのです

ちょうど、ラクビーボールの真ん中に「0」ポイントがあるイメージです

さて、これは一体何を意味しているのでしょう

それは、2元を超えるとは、2元を含むより大きな立体へと意識が拡張するということです

我々は、悟ると2元のない状態になると思いがちですが、実際はそれを縫合したしているのです

ただし、2元の平面に居るのではなく、自分の一部として、それを内側に持っているということです

さて、これとは別に、当初の質問である「ニュートラル」について

仏陀が説いた「中道」とは、間違いなく2元の真ん中に、全ての2元が交わる点が、覚醒のポイントだと説いています

しかし、ここには、いくつかの落とし穴があるのです

今まで説明してきたように、2元の中心は、確かに悟りへのポイントですが、2元の平面に貴方の意識がある時、貴方は単に2元の中心に居るだけだということ

そして、質問の「ニュートラル」

真の意味において「ニュートラル」に人がたどり着いたら、その瞬間存在の次元(源泉)へと貴方は吸い込まれます

しかし、この理解も非常に難しい物があります

通常人々がニュートラルにあると公言しても、それはやはり2元に居るのです

何故なら、「××しないように」しているからです

彼を悪く思うのは良くない、とか

彼女は・・・とか

つまり、抑圧しているのですね

抑圧ではない、真のニュートラルにたどり着く技法が、いままで開示されていませんでした

これが、Azizによって、もたらされたのです

瞑想の時によく私がリードする、Beingを使った瞑想方です

Beingの中心を貫き下に落ちる性質を使うのです

これにより、我々は「0」ポイントへと向かい、そして「0」ポイントから下へ、つまりZ軸へと向かうのです
ニュートラル、それは既に悟りを開いた者には、当たり前の境地です

何故なら、からはそこに居るからです

しかし、そこを目指す者が、真のニュートラルを理解しそこに行けることは非常にまれです

何故なら、好きや嫌いを抑圧することは知っていても、それらの力が完全に均衡し重力のないポイントを、知らないからです

知らない者が、そこに行き着く可能性は、非常に低いのです

仮にその側をを通ったとしても、知らないが故、それに気づくことがないのです
 

2元の補足

前回の2元と無についての補足です。

まず、前回2元と存在の次元をXY軸で説明しました

これは実は、XYZ軸で本来表現される物です

しかし、いきなり3つの軸を使うとメール(文字)では、難しいと思い、概略として2つの軸で説明しました

で、今回は、これを本来の3つの軸を使って説明します

それには、まず2元です

皆さんは、2元と中道の関係をどのように理解していますか?

ちなみに私は、魚の骨のような物だと思っていました

背骨が中道ですね

そして左右の小骨がそれどれの2元

中道という道があって、それが色々な2元の真ん中をまっすぐに通っている

しかしこれは、間違いでした

では、実際はどうか

全ての2元の中心は1点で重なっているのです

そうですねぇ・・・

例えば、菊の花

左右の花びらが、一つの2元です

そして、それは必ず真ん中を通っている

つまり、2元は必ずXYの交点である「0」を通ります

そして無数に存在する2元という棒が、XY平面を作っているのです

全ての2元の真ん中からは、この平面に垂直に「Z」軸が延びています

これこそが、存在の次元です

故に、XY平面の中心だけが、Z軸と繋がっているので、入り口と言うのです

貴方が、XY平面の中心に立つとき、貴方は未だ2元の中にいます

しかし、Z軸の入り口にも立っているので

そして、この入り口を通ることで、貴方はZ軸、つまり存在の次元へと意識をシフトするのです

その時、貴方はZ軸に居ますが、貴方は0ポイントにおいて2元を含んでもいるのです

さて、ここからは、少し話題が変わります

今回説明した、2元を超えて、存在の次元(Z軸)に入ると、喜怒哀楽が無くなるようなイメージをもってしまいませんか?

2元を超えるということと、無感動になると言うことは、まったく関係がありません

我々は、悟と聖人君主のようになるというイメージがあります

しかし、実態は全くその逆です

まず、集合意識から目覚めますから、「みんながやっているからこれでいいや~」と言うことに異をを唱えはじめます

それから、自分を防御する為に築いた壁を壊し、着ていたコートを脱ぐので、非常に繊細で感受性が豊になります

というか、壁やコートがなくなるので、直接自分自身に届くのです

これとは別に、常に自身を苦しめていた思考や感情、個人的には「妄想」と言う方がぴったりするのですが、それがなくなるので苦しむことが少なくなります

2元を超えるとは、それを置き去りにしてどこかに行ってしまうと言うことではありません

2元に巻き込まれている状態から向け出すということです

抜け出したからといって、2元が無くなる訳ではないのです

何故なら、物質世界こそが2元であり、貴方の体、思考、感情、これらはみな2元なのですから (^-^)
 

無はニュートラルか?

今日は、質問をいただいたので、それについて書こうと思います

質問は・・・

「無はニュートラルの状態ですか?」というものです

さて、ここで、この「ニュートラル」という言葉から私が受け取ったものは・・・

右でも、左でも無い、真ん中です

そう、仏陀が説いた、中道です

先ずは、この仏陀が説いた「中道」について話をしていきたいと思います

実は、仏陀が説いた中道ですが、これには秘密があるのです

ちょっと想像しながら読んでください

この世界は2元です

右側が嫌い、左側が好き、とします

その両方の真ん中に点が存在します

ちょうど、X軸の右と左、「0」が真ん中ですね

この、真ん中が中道です

ですが、実は、これは仏陀だから中道と呼べるのです

それは、どういう事か

「0」のポジションは、実は「無への入り口」なのです

では、無とは何か、もう少し座標を使ってイメージしましょう

X軸に垂直にY軸があります

このY軸が、実存の次元です

既に貴方がY軸に居るとすると、Y軸は、X軸の「0」を含みます

故に、Y軸に既に居る人は、Y軸の「0」である、つまりX軸の「0」をさして、そこは中道だと言うのです
ところが・・・

X軸に居る人から見ると・・・

X軸の「0」ポイントは、Y軸のほんの1ポイントにしかすぎません

X軸に居る人は、この「0」ポイント通って、Y軸へと入っていきます

故に、X軸に居る人にとっては、そこは未だ「2元の一部」であり、そこは実存へと向かう「扉」として認識されるのです

2元の真ん中のポイント、ニュートラルなその場所は、未だ2元の一部であり、そこは実存へと向かう秘密の入り口でもあるのです

では、我々が指し示す「無」とはなにか?

そこは、全ての形在るのが生まれて来る場所であり、全ての形在るものが帰っていく場所です

そこは、非常に豊です

形になる前の、全てのものが詰まっているのですから

これの香りを、かすかな香りに触れることができます

自分の内側を、繊細に感じると、その香りをかぐことができます

例えば、そこに美味しそうな「イチゴ」があったとします

貴方は、冷蔵庫の中にそれを見つけて「美味しそう」だと思うのです

この時に、内側を繊細に感じてください

貴方が、頭の中で「美味しそう」と思う以前に何かがあったはずです

その何かが、マインドをとおして「言葉」に翻訳されています

言葉という「形」になる前のもの

さて、ここで、もう一つ書きます

ちと長いですかね (^_^;

この真ん中のポイントから、Y軸に入る為の技法が、既に公開されています

それは、瞑想の時、鼻から入る呼吸に乗ってやってくるエネルギーを使う技法です

そのエネルギーは、肺で呼吸から離れ、地球の中心へと向かいます

このエネルギーの流れと共に、縦の次元へと入っていきます

このエネルギーに委ねることで、自分自身の内側へ深く入ることで、貴方はX軸の「0」ポイントへと向かいます

そして、このエネルギーは、「0」ポイントを通って、存在の次元へと流れていきます

このエネルギーの助けを借りて、貴方は「源泉」へと向かうのです
 

「ノー・シングネス(無)」

さて、今日のお話は「ノー・シングネス(無)」です

通常は「ナッシングネスn o t h i n g n e s s」と言うのだが、和尚はこれを「ノー・シングネスn o - t h i n g n e s s 」としたいと言った

では、nothingnessというとどういう状態をイメージしますか?

nothingnessというと、「そこに何もない状態」をイメージしてしませんか

そこから来る感覚は「空虚」です

しかし、我々が使う「無」とは、決して空虚ではない

無とは、全ての源泉を意味する

故に「物が顕れる前の状態」と理解する方が正しい

ここには、全てが詰まっている

ここから全ての事柄が顕れ出す

この無から全てが生まれる

だとしたら、どうしてここが空虚であれるだろう

無とは、全てを含んだとても豊かな状態だ

それは、まだ何かの形を取ってはいないが、形を取っていないからこそ、非常に豊だ

我々が瞑想で、時たまこの無へと入り込むことがある

源泉と言われている場所だ

全てが生まれる、その源

ここに入ると、人はリラックススする

自分自身が溶けて無くなる

正確に言うなら、リラックスが極限に達し、貴方を縛っている最後の固まり、つまり貴方自身が溶けたとき、それは顕れる

十全な暖かさの中、一切の緊張が無い状態で、形すら無くした貴方がそこに漂う

漂うという言葉さえ、適切ではない

何故なら、漂うと言うとき、漂う為の物、例えば海のような媒体と、そこに漂う貴方という2つがイメージされてしまうからだ

正確には、そこには何かを仕切る物は何も無い

それが無だ

無は、何も無いのではなく、形になる前の全てが詰まった状態だ

無という言葉は、そこに形となる物が「無い」故に「無」という

形が無いだけで、そこには形になる前の豊かな何かが充満している