2011年9月10日土曜日

I Am の質

 
 「I Am」の質として「気づき」「感覚」「在ること」がある。

「気づき」は、我々が何かに気がつくことで、この質が自分自身に気がつくことで我々は自分自身を知ることが可能となる。

「感覚」とは何かを感じることで、この質が我々に「私(Me)」の最初の体験を与える。

そして「在ること」とは存在の質で、これにより我々は自分自身の存在へと向かう。

 道の始め、人はこれらの3つの質に一つずつ気がつき成熟させていくが、進化の過程でこれら3つの側面が統合させる。

この3つの側面が統合されたとき人は「I Am」を理解する。

私とは「気づき」、「感覚(Me)」、「在ること」これら全て側面を持つ者である。
 
 

2011年9月7日水曜日

覚醒に至る骨格


我々の教えは3つの質がポイントなる。「気づき」「感覚」「在ること」の質である。

これらの質は「I Am」を構成するものであり、人間の身体にあるセンターであり、成熟させる3つの側面でもある。





2011年8月10日水曜日

ツール と 探すべきもの

 
私のリトリートに来る方には、始めに「暗闇を見ている自分に気がつくように」と言う

これがツールである

自己確立する為に、目覚めたもの達がいろいろなツールを使った

呼吸の合間を探れ

私と連呼しろ

等々

これらは、皆ツールである

ツールは、何かを伝える為にある

例えば、貧弱な男に

自転車に乗るように

ジョギングするように

水泳するように

といろいろなツールが与えられる

では、実際にはこっらのツールは何を指し示しているのか

それは、その貧弱な男の身体を改善すること

筋肉を調整し、呼吸器を調整しするなど

わかるだろうか?

水泳することが目的ではない

ジョギングが目的ではない

では、自己確立の途上で与えられるツールは何を指し示すのか

もしくは、ツールを使って「何を探すのか」

よくよく肝に銘じておく必要がある

このポイントをはき違えると、貴方の目的はツールになってしまう
 
 


2011年8月6日土曜日

内側の葛藤

 
内側で、葛藤が起こる

人と話して何か気になることを言われる

それは、相手も気になっている点

内側で思考が、感情が巡る

「何言ってんだ、こいつ・・・・」

相手は、何食わぬかをしている

で、気がつく

相手も、内側で

「なんだこいつ勝手なことばっかり言いやがって」等など、思っている

わかりますか?

自分もあいてに「それは、良い考えですね」などと言いながら

内側では「何言ってやがると」思っている

あいては「なるほど、こうするとよいんですね」などと言ってくる

しかし、自分と同じように内側では・・・

このばかばかしさに気づくこと

そうすると、自分の内側での葛藤が沈まります

ばかばかしさに気づくこと♪
 
本気でそのばかばかしさに気づくこと
 
  

2011年8月5日金曜日

恐怖

 
我々は、思考や行動の基準を恐怖においている

もしくは、恐怖が我々の思考や行動の基準になっているといってもよい

我々は、生まれると恐怖を覚え込まされる

赤ん坊の時、我々は自分で自分の身を守ることができない

食事、安全な寝床、排泄などなど

これらを他に依存している

この依存を利用して、恐怖を刷り込まれる

これが、我々の思考や行動の源になる

自分の思考や、行動をよく眺めてみるといい

そのほとんどが、恐怖に根ざしている

瞑想を通して、我々はこの恐怖を見る

自分自身に留まることで、思考や感情を見、元となる恐怖を見ていく

その後、実生活において、この恐怖を体験する

つまり、恐怖が思考や行動の元になっていることを実際にみる

瞑想の時ではなく、実際の今までと同じ行動の中にそれを見付ける

このとき、貴方は恐怖を超え始める
 

2011年8月3日水曜日

マインド と エゴ

 
マインドとは、何か?

我々の頭の中で繰り広げられていること

何かを考えること ・・・ 思考

情報に対する心の揺れ ・・・ 感情

本質を見抜き方向性を提示する ・・・ 知性

これらを統括的に使っているのがマインド

もしくは、これら全てをくるんでいるのがマインド

エゴ、それは私に関わる何か

「私が・・・」 「私が・・・」

「私の・・・」 「私の・・・」

これらは、悟った後も我々と共に存在する

もし、マインドがなくなったら、貴方はどうやって生きていくのだろう

動くことすら、ままならなくなるだろう

もし、エゴがなくなったら、貴方はコップを使うことさえ出来ないだろう

悟った後は、それらとの関わり方、そしてそれらの有り様が変わる

ここでちょっとした小話

列車に覚者が乗っていた

そばに居た人が「貴方は本当に悟っているのか? 何故荷物を持っている?」

すると、その覚者は列車が橋にかかると、荷物を谷底に投げてしまった

では、なぜこの覚者は、自分の荷物を持っていたか

彼は、自分が旅する上で、あると便利な物を持ち歩いていた

それは、彼にとって、良いと思われるのであった

しかし、物に執着しているわけではない

そして、この隣人の思考を停止さす為に、彼は荷物を投げた
 
 

2011年8月2日火曜日

Oneness と 絶対

 
Onenessとは、自他の区別がなくなること

貴方と貴方以外の物を隔てる境界線が消えること

絶対、それは貴方自身の分離がなくなること

貴方を見ている(感じている)貴方と、見られている貴方を超えること

そこには、ただ一つのエッセンスが「在ること」だけが存在する
 
 

2011年7月29日金曜日

外側、内側の外、内側

瞑想を始めると、「外側の世界」とか「内側の世界」等という言葉を聞く

外側の世界とは、我々が生きているこの物質世界のことである

では、内側の世界とは、目を閉じたとき顕れる内面の世界のことである

ここまでは、通常の精神世界で言われていることである

しかし、実際はこれだけではない

というか、これではあまりに不完全である

内側(内面)の世界にも実は外側と内側が存在する

外側の世界に「自分」と「自分以外」があるように、内側の世界にもこれが存在する

つまり、外側の世界、内側の外、と内側の内(自分自身)がある

貴方が目をつむった時、貴方は暗闇を見るだろう

ここには、暗闇とそれを見ている貴方自身が存在している

つまり、内側の貴方以外(暗闇)と内側の貴方が存在するのだ

貴方は、内側の世界に入り、そこに居る自分に気がつかなければならない
 

2011年7月28日木曜日

思考に巻き込まれる



精神世界の本などに「思考に巻き込まれないこと」というフレーズが出てくる

我々は、思考に巻き込まれて後、思考に巻き込まれていたことを知る

それは、マインドそれ自身の能力による

マインドは、思考に巻き込まれながら、思考に巻き込まれている自分人身(マインド)を見つめる間隙をその機能として持つ

これ故、我々は、思考に巻き込まれていたことに「はっ」と気づく

そして、自分が思考に巻き込まれていたことを知る

では、思考に巻き込まれない為には、如何にすれば良いのか

それは、思考や感情にエネルギーを注がないことである

これも、よく言われていることだ

では、感情や思考にエネルギーを注ぎ込むとは、どういうことか

それは・・・

それは、思考や感情のストーリーに自発的に参加していると言うことだ

我々は、自分から進んで、思考や感情のショーに参加している

例えば、帰りの電車で「昼間課長に怒られたことが思い出される」

すると・・・

我々は自発的に、この感情に参加する

「課長のあの言い方はひどいよな」などと・・・

これに参加しないこと

自分から、巻き込まれに行かないこと

2011年4月1日金曜日

全なるもの と 個なるもの vol.5

ブラフマンとアートマン

それは、コインの裏表

全で有り無であるブラフマン

そして個であるアートマン

アートマンは、完全な個であるが故、全で有り無である

無である仏陀の教えと、魂であるイエスの教えの出会い

ここで人は究極なるものになる
 
 
 

全なるもの と 個なるもの vol.4

ブラフマンとアートマン

コインの裏表

人が『完全なる個』を体験すると何が起こるか

つまり『十全』に個を体験すると何がおこるか

貴方が「個」を十全に体験し始めると、貴方は拡張し始める

貴方の個が、全てへと向かって拡張し始める

そして、貴方は全ての場所に、余すところなく存在する

このとき、ビックバンが起こる

何が起こるのだろう

貴方が消えてしまうのだ

貴方、つまり個である自分とは、自分と他者がいて初めて認識が可能となる

ところが、完全なる個になると、そこには貴方を指し示す他者が存在しない

全てが貴方になった瞬間、貴方は自分自身を知るすべがなくなるりビックバンが起こる

貴方を指し示す、他者がいなくなることで、貴方自身が消滅する

貴方は、個で有り、個であるが故貴方は全である
 
 
 

全なるもの と 個なるもの vol.3

ブラフマン と アートマン

全 と 個

すなわち、無 と 魂

これらは、コインの裏表をなす

太古の昔に語られたブラフマンとアートマン

現代においては、仏陀の道とイエスの道

2000年にこの2つが出会い、一つとなった

どちらか片方では、コインの片側のみを知るだけとなる

では、アートマンとブラフマンが何故コインの裏表であるか
 
 
 

全なるもの と 個なるもの vol.2

全なるものであり、無であるブラフマンと一如であるアートマン

アートマンのことをヒンドゥー教では、

意識の最も深い内側にある個の根源である真我
知るものと知られるもののを超えた個の中心にある認識をするもの

と教えている

知るものと知られるものを超えた認識するものである真我とは

我々がよく知ることで言うなら「魂」でり、「愛」である

これを説いたのが イエス

魂としての個人であり、神の御子であり、愛で創造されているもの
 
 
 

全なるもの と 個なるもの vol.1

全なるものとは、それを提示したのは?

これは、一般的には非2元と呼ばれる

全てが1つであるという教え

これは、non-dualpassとも言われ、ウパニシャッドが提唱している教え

我々日本人になじみ深い見方で言うなら「禅」

つまり無の境地

個が消え全てが一つとなる境地

仏陀が説き達磨によって伝えられた秘境

仏陀生誕の地であるインドでは、なんと言うのか

ブラフマンという

宇宙の根源、あまねく全てに浸透しているもの

このブラフマンを擁するヒンドゥー教では、なんと言っているか

アートマンとブラフマンは同一(等価)である(梵我一如)と言われている


では、全てであり無であるブラフマンと一如であるアートマンとは何か
 
 

2011年3月24日木曜日

孤独

Oshoの本を読んでいると、「孤独」という言葉に出くわすことがある

Oshoは、孤独だという

この孤独について、理解しようとしたとき

「自分が、誰にも理解されていない」ことが孤独だと思っていた

別な表現をするなら「自分が誰にも受け入れられていないから」と・・・・

しかしその後、神が自分を見続けていてくれたことをしり、この孤独感は消えた

しかし、最近「孤独」を味わう機会があった

この孤独は何か?

それは、投影によるものだった

人は、私のことを彼らの投影によって見る

彼らは私を見ない

私に投影した、その影をみる

このとき、私の中では

「私を見てくれ、貴方のイメージではなく、私を!!」

という、思いがあり、そして悲しみと痛みが私の中に広がっていた

きっと、この事をOshoは孤独と言ったのだろう

常に、投影された影を見ている人々

Oshoを直接見ることはなく

そして、それがこの世界のありのままの姿であること

それを「孤独」と言ったのだろう
 
 
 

2011年3月23日水曜日

トランスレイト(翻訳)された体験

それでは、実際何が起こっているか見てみよう

例えば、美しい花が咲いていたする

そして、貴方はそれを見付ける

「あ~~、このピンク色すてき」

「形も丸くてかわいい」

「あ、隣の花もかわいい」

実は、貴方は、花を見ていない

その美しさを感じていない

貴方は、何か言葉にすることに懸命で、花を十全にみていない

花を見た事によって起こる感動を、つまり体験を見逃してしまう

その体験(感動)に留まることなく、貴方はそれを言葉に換え始める

貴方は、貴方の中に起こった感動という体験をすてさり、それを言葉で描写したものを記憶として持ち運ぶ

例えて言うら、体験するはしから、その体験の感想文を書きまくっているのだ

どこが良かったのか、何が悪かったのかを

書くことに夢中で、その花を貴方は見ていない

書くことで貴方は体験そのものを捨て去る
 
 
 

2011年3月22日火曜日

『体験』

 
さて、ここまでのことを簡単におさらいする

外側の世界と内側の世界が存在する

外側の世界とは、この地球や宇宙などのこと

内側の世界とは、思考や感情などがうごめく世界

では、体験とは?

この外側世界や内側の世界での体験

例えば、自転車に乗る、キスをする、美味しいご飯を食べるなど

上司に怒られたことを頭の中で思い出す、明日の計画を立てるなどなど

そして、これらとは別に本当の体験が存在する

それは、これら全てを体験している「体験者」が存在するということ

その彼がしている体験、それこそが「真の体験」

これを体験する為には、真の自己を見付けるしかない

それは何故か?

もし、貴方が「真の自己」でないなら、貴方は真の自己がしている体験を知るすべはない

貴方は、何かを体験しているが、それは非常に不完全な体験

正確に言うなら、貴方は体験を翻訳することにやっきになっている
 
 
 

2011年3月19日土曜日

真の体験をするためには

真の体験とは、言葉などにトランスレイトされる前のもの

これを体験する為には、全ての体験者である真の自己になる以外方法がない

なぜなら、この真の自己こそが、全ての体験者であるからだ

別な角度かからいうと、覚醒する前の人は、そのほとんどを思考や感情に巻き込まれて生きている

つまり思考や感情から分離するすべを知らない

正確に言うなら、自分が思考や感情に巻き込まれて生きていることすら知らない

覚醒とは、ある意味、これら思考や感情と距離をとることを意味する

距離をとることで、人は巻き込まれたいたことを初めて知り、思考や感情に巻き込まれない生き方を学び始める
 
 
 

2011年3月17日木曜日

真の体験

 人は、外側の世界で、触覚、味覚、聴覚、嗅覚、視覚などによる様々な体験をします

歩く体験

飴をなめる体験

自転車に乗る体験

SEXの体験

いくら書いてもきりがなく、新たなる体験が日々地球上で作られています

そして、内側の世界に向かうことで、今まで経験したことのない、思考や感情の動きや様々なエネルギー状態の体験をします

今日仕事で言い合った課長との不快な感情の再体験

彼女のとの楽しい感覚の再体験

初めての境地のエネルギー体験

等々

人は、内側で起こるこれら体験に目を見張り、これらに魅了されていきます


では、さらなる体験とは、「真の体験」とは何でしょ?

それは、これらを体験してる『体験者』が存在していると言うことです


魂としての貴方が、真我である貴方が存在し、その貴方が体験していることこそが真の体験です

体験とは、他の誰かではなく、貴方がしている体験のことです


そして、この真の体験を認識する為には、迷子になっている真の自分を見つける以外に方法はありません

貴方が真の自分にならない限り、自分自身がしている体験を体感することは出来ないからです
 
 
 

外側の体験と内側の体験

 
体験は、大きく分けて2種類あります

一つは、皆さんが非常によく知る世界、つまりこの地上で起こることに対する体験です

初めてのおつかい、自転車、パソコン 等々

では、それ以外にいかなる体験があるのか?

覚醒(悟り)を志し瞑想を始める時、人は新たな空間へと誘われます

それは、内側の空間です

この空間では、思考や感情が渦巻き、そこに自分の姿が見え隠れしてきます


人は、地上に生まれ落ちた時、外側の世界(地上の世界)にめを見張ります

その色彩、絶え間ない動き、いろいろな感触(5感)、自転車に乗るなどの体験 等々

そして、内側の世界に入ったときも、人はこれに目を見張ります

感情や思考の動き、様々なエネルギー体験 等々

体験には、内側と外側の体験があるのです


しかし、さらなる体験、『真の体験』が、その奥に隠れています
 
 
 

2011年3月16日水曜日

祈り

 
すでに多くの方が祈りを始めていると思います
 
ここで、これから祈りを始める方に、その方法を伝えたいと思います
 
まず、「祈り」と「お願い」が違うことを理解してください
 
「~して下さい」「~がほしいです」「~が・・・・」と言うのは、お願いです。
 
別な表現をするなら「要求」です
 
では祈りとは何か?
 
まず、被災地の状況や心からの呼びかけなどハートがきゅんとした時の画像や音声を思い出して下さい
 
その時のハートの感覚に留まって下さい
 
そして、画像や音声を手放します
 
ハートのきゅんとした間隔に留まり、これと一つになります
 
この感覚は徐々に貴方全体へとひろがりまう
 
やがて、この感覚は愛へと代わり、貴方は愛と一つになります
 
 
貴方が愛と一つになるとき
 
貴方が愛そのものなるとき
 
全てのものが癒やされます
 
 

2011年3月13日日曜日

体験

ここ半年ほど、1dayリトリートやプライベートリトリートなどを行い、充実した日々を送る反面、こちらの更新が滞っていましたが、そろそろ再開していきます。

それでは、再開1発目は「体験」です。

我々は知的理解ではなく、実際の覚醒へと至る道を開示しています

この違いは何か?

それは、知的理解ではなく、「体験」を重視し、それを伝えていることです

それでは、何故この「体験」を重要視するのか

もし貴方が幸せになりたいと思っているとします。

もし貴方が、幸せなる空想をいたり、幸せについての本を読んだりしても、貴方は決して幸せになることは出来ません

何故なら、貴方が『幸せな“体験”』をしていないからです

知識を集めたり空想したりしても、貴方自身が幸せの体験をし続けていない限り、貴方は幸せではありません

これと同様に、覚醒について如何に空想しようが、誰かから覚醒についての知識を得ようが、貴方が覚醒の体験をしていない限り、貴方は無明のままです

全ての鍵は『体験』です