2014年9月8日月曜日

気付くこと 気付かれること

 
何かに気がつくということは、そこに気がつかれたものが必ずある

貴方が、貴方自身に気がつくとき、そこには気がつかれている貴方自身が存在する

通常、あなたは対象物に気がつく

例えば、貴方は、テーブルの上にあるイチゴに気がつく

テーブルの上にあるイチゴは、貴方に「気付かれる」

では、貴方が貴方自身に気がつく場合はどうか

貴方は、貴方がイチゴに「気がつく」のとおなじように「貴方自身に気がつく」

こと時、イチゴが貴方に気付かれているのと同様に、「貴方自身は、貴方に気付かれている」

貴方は、貴方自身に気付くのと同時に、貴方自身は貴方に気付かれている

貴方は、2つの気づきを持つ

気付いている貴方と、気付かれているあなただ

では、貴方が貴方自身を安定的に保つためにはどうするか

気付くことから、気付かれている貴方自身に意識のポイントをシフトすればよい

言葉で書くと、こうなるが、どうやってシフトするのか・・・

『暗闇を見ている、自分自身に気がつく』

これは、貴方が貴方自身に気がつくこと

つまり、貴方はイチゴに気がつくのと同様に貴方自身に気がつく

この時点で、貴方の意識は、気がつく側にいる

ここで、自分自身に気がついたなら、気がつかれている自分を感じる

ここで、気がつくことから、気がつかれている自分自身に意識のポイントがシフトする

貴方は、自分自身を感じる

自分自身に気がつくことではなく、気がついた、つまり気付かれた自分自身を感じる

「気がつくこと」と「気がつかれた者そのものを感じること」

この事を、体験的に理解しておくこと


2014年9月4日木曜日

意識的であること


State of presence を安定化させるために必要なのは、集中とは異なる方法で、自分自身を起想し続けることだ

まず、左手を感じてほしい

左手を感じながら、右手を動かせるだろか

右手を動かせたなら、左手を感じたまま立ち上がり、歩いてみよう

左手を感じたまま・・・

貴方は左手を感じたまま動くことができる

では、目を閉じて、暗闇を見ている自分を感じて

暗闇を見ている自分を感じたまま、手を動かしてみよう

さっき左手を感じた時と同じようにやってみよう

自分自身を感じたまま、立ち上がり歩いてみよう

これは集中とは異なる「自分自身を継続的に保つ」方法

例えば、貴方は道を歩きながら、漫然と意識を周りに張り巡らせている

もし、車の音が聞こえたなら、貴方はそれに対応するだろう

左から、急に何かが飛び出したら・・・

貴方は、漫然と注意をし続けている、意識を配り続けている

集中するのでなく!!

これが、State of presence を安定化させる鍵となる

これを我々は「意識的」と表現する

集中とは異なり、自分自身の感覚に意識的なる

左手を感じたときのように、左手の代わりに自分自身を感じる

この「何かに集中することなく、それを継続的に意識する」ことで、貴方は、動くことも、話すことも、考えることをしながら、それでもなを「自分自身に意識的」でいられる

つまり、自分自身を保ち続けることができる

自分自身を失うことなく、日常を送ることができる
 
 
 

2014年9月3日水曜日

State of presence が安定化しない理由

 
State of presenceを安定化させるために、人々は自分自身に気がつくことに集中する

しかし、これでは、ほとんどの場合 State of presence を安定化できないだろう
これを安定化できるのは、集中とは違う何かに気がついた者だけだ

通常、State of presence の安定化に向けて何をするのか?
「自分自身に気が付き続ける」という努力をし続ける
別名「自己起想」ともいう

では、自分自身に気がつき続けるとは、どういう風に行っていたか
自分自身に意識を集中して、これを無くさないように継続し続けるわけだ

そう、自分自身に「集中」し続けるわけだ

この方法では、ほとんど安定化することは難しい

何故か

理由は至っていシンプルで、集中は、1点に向かって他を排除する方法だからだ
つまり、自分心に気がつくこと以外排除していく

するとどうなるか、貴方は、動くことも考えることも息をすることさえできなくなる

安定化とは、日常生活を普通道理に過ごしながらも自分自身を保ち続けている状態だ
(ここで言う自分自身は、頭のエリア、意識としての自分のこと)

しかし、集中では、日常生活はおろか息をすることさえできなくなってしまう
自分自身に気がついてること以外きりすてて、気がついていることだけに向かうからだ

では、如何にして安定化を得るか!!

2014年9月2日火曜日

摩擦


この世界で生きるとき、そこには必ず摩擦が生じる
この世界は、そのようにできている

自己確立すれば、2元を超えていけば不快な感情から解放されるのではないかと思っていたが、事実は異なる

確かに2元を超えると、思考や感情の渦に巻きこまれることも極端に減るし、思考や感情がそもそも意識上に登ることが減ってはくる

しかし、我々が持つ五感が無くなるわけでもなく、喜怒哀楽を感じる感性が消滅するわけでもない
ただ、これらに起因した思考や感情の寸劇が劇的に起こらなくなるだけだ

つまり、目の前で誰かが傷つけが、心が痛む
しかし、その場を離れれば、それに関しては終わる

一般の人の場合どうなるか?
その場を離れると、頭の中で先ほど起こった出来事についての寸劇が始まり、その主人公を演じている

この余計な寸劇が湧き起こることが劇的にすくなる
それは、ある種静寂なかのいることになる

頭の中の寸劇が止むとき、人は静寂を堪能し始める

しかし、それでも我々がこの世界で生きていく限り、目の前でいろんな事がおこり、それに対して我々の喜怒哀楽は反応する

これらは、ここで起こることを受動的に見た場合だ
しかし、現実はこれと少しことなる

我々は、ここで生きるために、食し、眠り、会話する
我々は、自分から何か変化を起こし続けている

例えば、話すこと
何もない空間に、意味のある言葉を放り投げる

それは、摩擦となってその空間に影響を与える

その摩擦は、受け取る人によってよい物であったり、不快なものであったりする
しかし、いずれにせよそれは摩擦となって放たれる

身体を動かすこと、感じることも、聞くことも、見ることも、全て摩擦を生じさせる
良い悪い如何に関わらず

これが、この世界の有り様だ

生きている限り、我々は摩擦と生じさせ続ける
自分が良かれと思ってやったことも、摩擦として影響を他者にあたえる

貴方が、他者に摩擦を与えるのが嫌なら、動かなければ良い
しかし、それでも摩擦は起こる

なぜなら、貴方が動かなくても、向から摩擦が飛んでくるからだ

そう、この世界で生きると言うことは、摩擦を生じさせ、また摩擦を受けるということ
われわれが、ある種摩擦そのものであるということ

我々は、ここで生きる以上この摩擦から解放されることはない