2017年6月30日金曜日

”覚醒” 神


神とは、自分にとってどんな存在だろうか?

神は、私を愛し
神は、私を生かし
神は、私に必要なものを与え
神は、私を包み込む

片側の側面からみたなら、正しい理解だ

しかし、別の側面からみたらみたら正しくはない

何故、あなたは苦しむ
何故、あなたは怒る
何故、あなたは悲しむ

神は、神にとってすべきことをする
神は、我々にとって必要なことをする

例えそれが、我々にとって楽しくないことでも
我々にとって、それが必要なことなら彼女はそれをする

そして、そもそもこの世界は、矛盾している
一過性がない世界である

神は、自分に都合の良いことだけしてくれる存在ではない

神は、我々が楽しい楽しくないにかかわらず
神は、神にとって必要なことをする

それは、我々が楽しい楽しくないにかかわらず
我々にとって必要なことでもある

神を、自分に都合の良いことだけしてくれる存在だと思っているうちは
彼女と十全に出会えない


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2017年6月23日金曜日

”覚醒” et cetera


世界と私の間に、隙間を作ること
人は、この世界に巻き込まれている

世界(現実)との間に隙間を作るためには、この外側の世界が矛盾していることを理解しないければならない
この現実の世界は、矛盾している
この矛盾している状態が、現実世界でる

なぜ、この世界は矛盾しているかを探求するのではなく、そもそもこの世界は矛盾している、ということを受け入れることが、そもそもこの世界は矛盾しているということを真に体験的に理解できたなら、あなた現実世界との間に隙間を作ることができる

内側の世界で思考に巻き込まれていることから、内側の自分にとどまり、それらとの間に隙間を作ることで、巻き込まれることから非難したように、外側の矛盾した世界との間に隙間を作って、これに巻き込まれることからエスケープしなければならい

我々は、自身の生を最愛なるものにささげる
そしてこのことに意識的になれるなら、あなたは「悪いことやウソなど」を最愛なる者にささげられるだろうか?

内側に自分があり、外側の現実に巻き込まれないようになったなら、自分の生を最愛なるものにささげよう
我がなくなる時、それは思考や感情に巻き込まれることななり、外側の現実?と距離をおいてこれに巻き込まれないとき、そこには神が在る
そのとき人は、神にゆだねている


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2017年6月21日水曜日

”覚醒” 矛盾


アーナンダマイー・マーの言葉より


この世界は矛盾よりなっており

その中に巻き込まれている限り

世界を理解することは出来ない



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2017年5月31日水曜日

”覚醒” 全ては、神でできている



全ては、神でできている

家、木、雲、空気、犬、猫・・・

ここにある物で、神以外の物はない
全ては、最愛なる者でできている

一つの逸話

朝、パンを食べようとしているときに、子犬がこれを
くわえて逃げた

「あ~~ まって バターを塗ってあげるから」




2017年4月26日水曜日

”覚醒” 自我、魂の我、個を越えたが我

 
 現代(カリユガ)は、色んな食物を取らなくては身体を養っていけない時代だから、この肉体が自分だという意識がどうしてもなくならない。こういう有様で、ヴェーダンタ式に『我は"それ"なり(ソーハム)』と言っちゃいけない。世間並みのことをあれもこれもやりながら、『我こそがブラフマンである』言っては、正しくないんだよ。世間のことが捨てきれない人達や、"このワラシが”という気持ちからどうしても脱けられない人たちは、こういたらいい。つまり、私は神の召使い、私は神の信者だと誇らしく思っているのがいい。信仰の道を進んでも、ちゃんと神をさとることができるんだから。
 智慧の道を修行する人は、これではない、これでもない、と感覚を通してわかる知識を次から次へと捨てていって、そうして最後にブラフマンを知ることができる。ちょうど階段を一段一段上がって屋根に登るような物だ。ところがもう真理を体得した人は、つまり屋根の上に上がってしまったひとは、さらにあの御方に近づいて、それ以上の物を見ているんだ。その人はね、やねと同じ材料の煉瓦やセメントで、一つ一つの階段も作ってあるのだということがわかるんだ。ネーティ、ネーティと打ち消しつくして、最後にブラフマンとして感じ取ったもの、それ自身が、一つひとつの生物と世界に成っているんだよ。真理を掴んだ人というのは、無性無相の"それ”が、ありとあらゆる性質と色相なんだということがわかっている。
 屋根のてっぺんに人は長いこと居るわけにはいかないから、また下りてくる。三昧に入ってブラフマン智を得た人々もまた下りてきては、生物や世界に成っているのは"それ"、ブラフマンそのものだということを納得するわけだ。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、の音階のシだけをいつまでも発音してはいられないからね。"私”がすっかりなくなるわけにはいかない。私がとりもなおさず”それ”で、”それ”が生物、世界、ありとあらゆるものだとわかる。これを"大覚”というんだ。
 智慧の道も、道だ。智慧と信仰の道も、道だ。それに信仰だけの道も、道なんだよ。智慧のヨーガも正しいし、信仰のヨーガも正しい。どんな道を通ってもあの御方のもとに行けるよ。けれど、"私”が残っている間は、信仰の道が一番楽だ。

不滅の言葉 第3章より


我々がシェアする教えは、自己覚醒であり、これを通して神へと至る道だ
自己覚醒をとおし、神へと至る過程で、我々は"私"を落とす

我々は、この"私”を"我”と呼ぶ
"我”には2種類の我がある

今のあなたをほとんど全ての部分をしめる我のことで、これが落ちたとき、魂に触れている我が残る

私が"Me”であるうちは、そこに我がある
何故なら、"Me”は"私”だからだ

ここで私は、我について以下の状態を自分の経験から提唱する

自我、魂の我、個を越えたが我

自我とは、思考に巻きこまれることから逃れ人の状態で、魂(Me)と様々な我が混然一体となっている状態だが、それでもそこに自我としてのセンターをもつ
このセンターを持たない人は、つまり一般の人は無意識である

この状態から、2元を超え残像として残っている自我が消えるとそこに魂として我(純粋な私)が顕れる
しかし、これでもそこに顕れているのは"私”であるため、そこには我が、つまりとてもミニマムであるけれど"私”が存在している

さらにこの魂の我を越えることを望む者は、個を越えた我へと向かう
個を越えるが故、その我は、個人として所有を越える



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