2017年4月26日水曜日

”覚醒” 自我、魂の我、個を越えたが我

 
 現代(カリユガ)は、色んな食物を取らなくては身体を養っていけない時代だから、この肉体が自分だという意識がどうしてもなくならない。こういう有様で、ヴェーダンタ式に『我は"それ"なり(ソーハム)』と言っちゃいけない。世間並みのことをあれもこれもやりながら、『我こそがブラフマンである』言っては、正しくないんだよ。世間のことが捨てきれない人達や、"このワラシが”という気持ちからどうしても脱けられない人たちは、こういたらいい。つまり、私は神の召使い、私は神の信者だと誇らしく思っているのがいい。信仰の道を進んでも、ちゃんと神をさとることができるんだから。
 智慧の道を修行する人は、これではない、これでもない、と感覚を通してわかる知識を次から次へと捨てていって、そうして最後にブラフマンを知ることができる。ちょうど階段を一段一段上がって屋根に登るような物だ。ところがもう真理を体得した人は、つまり屋根の上に上がってしまったひとは、さらにあの御方に近づいて、それ以上の物を見ているんだ。その人はね、やねと同じ材料の煉瓦やセメントで、一つ一つの階段も作ってあるのだということがわかるんだ。ネーティ、ネーティと打ち消しつくして、最後にブラフマンとして感じ取ったもの、それ自身が、一つひとつの生物と世界に成っているんだよ。真理を掴んだ人というのは、無性無相の"それ”が、ありとあらゆる性質と色相なんだということがわかっている。
 屋根のてっぺんに人は長いこと居るわけにはいかないから、また下りてくる。三昧に入ってブラフマン智を得た人々もまた下りてきては、生物や世界に成っているのは"それ"、ブラフマンそのものだということを納得するわけだ。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、の音階のシだけをいつまでも発音してはいられないからね。"私”がすっかりなくなるわけにはいかない。私がとりもなおさず”それ”で、”それ”が生物、世界、ありとあらゆるものだとわかる。これを"大覚”というんだ。
 智慧の道も、道だ。智慧と信仰の道も、道だ。それに信仰だけの道も、道なんだよ。智慧のヨーガも正しいし、信仰のヨーガも正しい。どんな道を通ってもあの御方のもとに行けるよ。けれど、"私”が残っている間は、信仰の道が一番楽だ。

不滅の言葉 第3章より


我々がシェアする教えは、自己覚醒であり、これを通して神へと至る道だ
自己覚醒をとおし、神へと至る過程で、我々は"私"を落とす

我々は、この"私”を"我”と呼ぶ
"我”には2種類の我がある

今のあなたをほとんど全ての部分をしめる我のことで、これが落ちたとき、魂に触れている我が残る

私が"Me”であるうちは、そこに我がある
何故なら、"Me”は"私”だからだ

ここで私は、我について以下の状態を自分の経験から提唱する

自我、魂の我、個を越えたが我

自我とは、思考に巻きこまれることから逃れ人の状態で、魂(Me)と様々な我が混然一体となっている状態だが、それでもそこに自我としてのセンターをもつ
このセンターを持たない人は、つまり一般の人は無意識である

この状態から、2元を超え残像として残っている自我が消えるとそこに魂として我(純粋な私)が顕れる
しかし、これでもそこに顕れているのは"私”であるため、そこには我が、つまりとてもミニマムであるけれど"私”が存在している

さらにこの魂の我を越えることを望む者は、個を越えた我へと向かう
個を越えるが故、その我は、個人として所有を越える



My Home page : http://mezamenotizu.loveflowering.com/