2016年11月14日月曜日

”覚醒” 何を目指しているのか



あなたが道に入り、workを続けるうち、あなたは自分が何をしているのかわからなくなり、自分がわからなくなっていることすら、わからなくなる

あなた方が目指すものは何か?

それは、貴方自身だ

感情や思考に絡め取られているあなたではなく、あなたそのものだ

自分が何を目指しているのか、しっかりと理解し意識しなければならない

頭の中のあなたの挙動に意識的になれたとき、そして今まで自分自身の挙動に無意識であったことに気がつき、あなが意識的に行動できたなら、あなたは自分自身として行動してる

我々がAzizとHoumanの教えに狂喜したのは、彼らが「それそのものを指し示していたから」だ

いまここに、更なる精度で貴方自身の無自覚さと貴方自身そのものが開示された

まっしぐらに、自分自身に向かいなさい


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”覚醒” 目覚めと進化



目覚め、つまり目を覚ますことと、本当の意味での進化は ある種別なものを指す 故に我々日本人の語感からするなら、目覚めと変容の方がイメージ的にピンとくるかもしれない

人の状態は、低いところ、つまり一般の人の状態で夢見の状態だ これは目は開いているが夢うつつの夢遊病者のような状態で、常に頭の中で何か考え事をしていて、目の前の出来事を見ているようで見ていない

この状態は、思考や感情に巻きこまれながら過ごす次元で 苦しみの次元だ

そして、彼らは皆マインドの私という仮面(ペルソナ)を被ってそれと一体化してる 例えば、僕は日本人だから、男だから、夫だから、会社員だから、課長だから・・・ そういった、誰かに教え込まれたこうあるべき自分像を私だと思い それと一体化している

2番目の状態は、1番目の状態が苦しいことに気がついた人が向かうところで、まず初めに、肉体とは別のエネルギー体としての自分に目覚めていく  頭の中に居るエネルギー体の自分、つまり意識としての自分を発見しそれに留まり、エネルギー体の手、足、身体を見つけそれと一体になる次元

この時、人は頭の中に思考や感情以外の「私」を発見しそれに留まることで、頭の中の「思考や感情」とは違うもう一つの「私」を得ることなり これにより、人は「思考や感情」ではない「私」に留まることで、初めて「思考や感情」から切り離されて、つまり騒がしさやネガティブな思考などの苦しみから切り離される体験を得、それと同時に自分自身に留まる穏やかさの体験を得る

この次元は、エネルギー体の自分を見つけそれと一体になる次元だ
そして、何故自分は苦しいのか、この苦しみはどこから来るのかなどの、心の側の探求、正確には、心の探究をするための下準備を行う期間でもある


この次元が、目覚めの次元だ  夢遊病者から、自分自身に留まり、思考や感情に巻きこまれない状態、つまり思考や感情に捕らわれないことで、自分の外側に起きていることを認識できる状態となる

それでも、人は未だ「マインドの私」と同化しいて、外側の出来事を、この「マインドの私」を通して知覚、認識している


3番目の次元  これは、既にエネルギー体それ自身になった人がおこなうworkだ このworkを始める時、その一番初めにすべきことは、頭のエリアのあなたが、自分自身を自覚し、なおかつ意志をもって行動できるかだ  たとえば、頭のエリアのあなたは、瞑想するとき、「よし、瞑想するぞ」と思い、瞑想を始めるが、実際にしていることは、足や手、胴体が座っているか、思考や感情に巻きこまれたいないか、それに外側の音に警戒したりして、そのうち深く入ると「ぼ~~~」としているのだが、そのこと、つまり頭のエリアの自分自身の挙動に気がついているかということだ あなたが、頭のエリアの自分自身の挙動に気がつけたなら、頭のエリアの貴方自身が座ることだ、くつろぐことだ

これができたとき、あなたは、あなた全体として初めて座ることができ、そしてくつろぐことができる

これは、あなたが3番目の次元のworkとして、常に行うべきものだ
我々の教えが導くのは、あなたが目指すのは、統合体としての貴方自身として生きることだからだ

さて、これとは別に、3番目の次元で行うべきもう一つのworkは、自分自身の変容だ
2番目の次元で人は、自分自身としての感覚を手に入れる つまり私というエネルギー的な身体を見つけそれ自身になるわけだが、それはあくまで自分自身になるだけで、状況は大きく変わっているわけではない

もちろん、無意識で夢遊病者のような状態から、自分自身になれたわけだからそれは、奇跡にも匹敵する変化ではある しかしあなたを取り巻く思考や感情、あなたが身につけ同化してるペルソナは、未だ変わらずそこにある

故に3番目の次元で行うもう一つのworkとは、貴方自身の変容だ

本当の救いとはどこにあるのか

それは、貴方自身が変容することで、あなたが不必要に世間から刺激されないようになると言うことだ

あなたが、常に何か会社に不満を抱いてるとする  もし、あなたの考え方や感じ方が本当に変わったなら、あなたは、今と同じように会社に不満を抱かなくなるだろう

他人、会社や世間も同じだが、これを変えようとしても変わるものではない
古より言われているように、外側ではなく、自分自身が変わらねばならい

自分の心の、精神の有り様に意識的になり、自分を無意識のうちに怒りや悲しみに向かわせる何かに気がつき、それを超えていかなけらばならない

それを探求していくのが、この次元の大いなるworkだ


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2016年11月2日水曜日

”覚醒” 生死感



生が終わる瞬間を 死 という  普通我々は、生(せい)を 生(う)まれそして死ぬことと理解している

死と生のとらえ方において、理解しなければならないポイントがある

我々は、この物質世界に生まれ、死が訪れる前のポイントにいると思っている

人々は、生が少なくなって、これがゼロになるとき、死がやってくると思っている

言葉や文字にして認識してはいなが、ほとんど全ての人が、生がなくなっていって、これがゼロになり死が訪れると理解してる

コップの水が、飲むほどに減っていき最後には空になるように、寿命が減っていくと理解している

しかし、これとは別に我々は生かされている という理解もある

小鳥が今日の夕食に虫を食べるように、彼女は生きることに人間のようにあくせくしなくても、神が食事を与えてくれる

これを、別な角度で現すなら、『人は死ぬまで生きる』 だ

人は、死ぬまで生きることができる  人は死ぬまで生かされている

この、生死感の違いは、我々が覚醒を目指すうえで非常に重要な違いにある

私の知る人々、主にスピリチュアルな道を既に歩んでいる者達には、死を恐怖としてとらえていない者も多い  それでも皆、痛いのは嫌だとは言うが(笑)

しかし、そんな彼らも、理由はわからないが、死に束縛されている感覚を持っている

死ぬこと自体怖いわけではない しかし、それでも尚 死の影響を、意識的である無意識であるかは別にして、何某かの影響を受けている

それは、何故か

それは、生が減っていくものだという理解を持っているからだ

あなたは、生がだんだん減り死がどんどん近づいているという理解を持っているが故、生のの残りが少なくなるにつれ、あなたは焦りだす

理由はわからないが焦り出す そわそわし出す 何かしなければと・・・

我々は、物質世界において、コップの水にしろ、石油にしろ それらは減っていきなくなるものだと言うことを、経験的にもっており、そのロジックが身体に考え方に染みついている

故に、人生をコップ1杯の水のように理解し、それはじょじょに減っていき、やがて無くなると思っている

そして、自分の人生の残り時間が少なくなることに怯え、恐怖をもち焦り出す
何か得体の知れに者に追われているような感覚を持つことになり、それがおびえや恐怖となる

死そのものに対する恐怖が消えたなら、生に対するそのとらえ方も変えねばならない
変えなければ、生の残りが少なくなるほど、あなたは怯えや恐怖に巻きこまれる

人生の残りが少ない 早く悟らねば  こんなことをしてる場合じゃない・・・ などんど

生を、『我々は死ぬまで生きる』と理解したとき、生きていることに対する恐怖も超えていくことできる

我々は死ぬまで生きることができる

それは、生きている過程がどうであれ、我々は死ぬまで生きるということで、例えば、ある時はお金も沢山あり、大きい家に住み、豪華な食事をたべるかもしれない、あるときは小さな家で質素な生活をしてるかもしれない

しかし、生を減っていくものと捉えることなく、死ぬまで生きられると捉えたとき、僕は僕の外側、つまり環境が変わっても、同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる

一人であろうが、パートナーといようが、どこに住もうが、僕は笑い、愛し、人生を楽しむだろう

しかし、生をコップ1杯の水のように有限と捉え時、そこには比較が存在する  昨日より1日分生が減ったと

この比較が、生の中に混ざり込む 生のとらえ方が比較を伴うものなのだから、必然的にその生には比較が紛れ混む

前は、大きい家に住んで外車にのって贅沢な食事を食べられたのに・・・ と
生のとらえ方に比較が入り込むが故、生きている間比較から逃れることができない

『人は死ぬまで生きられる』この理解には、比較が入り込まない
それ故、我々は我々を取り巻く環境がかわろうと、死ぬまで同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる


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”覚醒” 愛と結婚について



OSHO 錬金術 Ⅰより

私が考える限り、多くの人を愛せる人間は
愛だけで結婚することはないだろう
彼はもっと深いもののために結婚する

どうか私の言うことを理解して欲しい

もし一人の人が多くの人を愛するならば
その愛だけで誰かと結婚する理由がない
結婚しないでも多くの人を愛せるからだ
だから結婚する理由がない

我々は愛ゆえに、全ての人に結婚を強要する
あなた方、は結婚という枠の外で人を愛せないからだ
我々は不必要に、愛と結婚を一つに結びつけることを強要した - 不用意にだ

結婚とは、もっと深いもののために存在する
さらにより深いもののため - 親密さのため、「ぴたりと一つの状態」のため、一人では不可能な、しかし二人で可能なもののため、一体感、深い深い一体感を必要とするもののために

しかし、この愛に飢えた社会ゆえに
愛は、ロマンチックな愛から結婚に落ちる
愛は実際、結婚のための大いなる基礎に他ならない
愛は楽しみであり、遊びだからだ

もしあなたが愛のために誰かと結婚するなら
失望するだろう - すぐに楽しさは消え去り
新鮮さは消え失せ、退屈になる

結婚は深い友情、深い親密さのためのものだ
愛はその中に示されている
しかしそれは愛だけではない
結婚とはスピリチュアルなものだ

自分一人では進んでいけない多くの事柄がある
自分自身が成長するにしても、反応してくれる人物、自分自身を完全に開けるほどに親密な人間、彼、彼女が必要になる

結婚はまったく性的なものではない
私達がそれを無理やり性的にしたのだ
セックスはあるかもしれないし、ないかもしれない

結婚は、深いスピリチュアルな共感だ


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2016年11月1日火曜日

”覚醒” 思考の始まるプロセス



思考が始まるプロセスを理解する前に、我々が自分の思いを認識するプロセスについて理解する必要がある  例えば、私はイチゴが好きだとする  このイチゴが好きだという自分の思いを人はどうやって理解するのだろうか

理解のプロセスの順序を逆にしてみていこう  まず、一番外側、つまりあなたは声に出して「私はイチゴが好き」という では、この発声の前は?  あなたは頭の中で「イチゴが好き」という  では、その前は?

あなたの中には、言葉なる前の、言葉にならない「イチゴが好き」という思いがある この思いを我々は確認するすべを持たない  わかるだろうか?  我々の心の中に「イチゴが好き」というおもいがあっても、それを直接確認するすべを我々は持たない

よて、我々はそれを自分の外に出すことで、つまり対象物にすることで初めて確認することができる  心の中の言葉になる前の「イチゴが好き」という思いを、頭の中で言葉(声)にすることで、自分自身の外側に出すことで、それを対象物にすることで、あなたはそれを認識できる

頭の中で「私はイチゴが好き」と言うことで、あなたは初めて自分がイチゴが好きのだと認識できる

そして、これはほぼ自動的に行われている  何か思いが湧き起こると、あなたはそれを無意識に頭の中で言葉にする

これが思考の始まりだ

例えば、あなたが瞑想して静かな状態にあるとき、あなたのそばで車の音すると、言葉にならない「車の音だ」とい思いが湧き起こり、続いて自動的にそれは頭の中で「車の音だ」とい声になり、あなたは外で車の音がすることを認識する

この時、あなたの頭の中に顕れた「車の音だ」という声に反応して、あなたの内側に声にならない思いがわき上がる 例えば「うるさいなぁ~」とか、これが自動的に頭の中で「うるさいなぁ~」という声なる  そしてあなたはこれに反応した次の思いを・・・・

このようにして、あなたの思考が始まっていく


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”覚醒” 意識と無意識



意識と無意識の違いは何か?  その質において意識と無意識に違いは無い

では、意識的であるとは何か? それは周りの状態に注意がまんべんなく注いでいる状態だが、それは特定の強さを言うのではなく、相対的な意味合いにおいてより強くもしくは沢山意識的であることを指している

では無意識とは何か?  もし言葉道理意識がないとしたら、ひとは道ばたに倒れ昏睡状態にある しかし、我々が言う無意識とは、昏睡状態のことでなく、意識はあるが、それがとても弱い状態をさす・・・

正確にはそうではない、意識を仮に量的にあらわして説明するなら、無意識とは意識のほとんどを思考に向けてしまい、自分の状況や周りの状況に対して注意を払っていない状態だ

では、我々が日々行う自分自身に向かうworkにより何が変わるのか 我々が自分自身に向かうと、我々は思考から離れ自分自身に意識的になる  それは思考に向ける意識の割合が減っていき、自分自身や周りの状況に裂く意識の割合が増えることをさす

つまり無意識とは、意識のほとんどが思考に向けられ、自分自身や自分の行動、周りの状況を意識できない状態から、思考に意識を自動的に向けること、つまり自分自身や自分の周りに対し向ける意識の量が少ない状態から、自分自身に向ける意識の量を多くすることで、常に自分自身に意識的であるようにする

無意識とは、決して意識がないわけではなく、単に意識のほとんどを思考に向けている状態だ

またこれとは別に成熟という言葉在る  成熟とはよりその状態に深く慣れ親しむことで、意識的な状態に成熟すると、人はより少ない意識状態でも意識的でいることができる  昔は無意識になってしまう意識の量でも、意識的な状態に成熟してくるとより少ない意識量で意識を保てるようになる


意識的になるとは、意識が自動的に思考に向かってしまうことを自覚し、思考ではなく自分の状態等に意識を向かわせることで、より成熟してくると、使われてない意識は思考に向かうことなく、そこでただリラックスしている

この状態が日常的になると、あるときあなたの意識は、別の次元に根を下ろす  意識的な次元に根をおろす  あなたはいままでより、より軽やかに意識的でいられるようになる


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