2014年9月2日火曜日

摩擦


この世界で生きるとき、そこには必ず摩擦が生じる
この世界は、そのようにできている

自己確立すれば、2元を超えていけば不快な感情から解放されるのではないかと思っていたが、事実は異なる

確かに2元を超えると、思考や感情の渦に巻きこまれることも極端に減るし、思考や感情がそもそも意識上に登ることが減ってはくる

しかし、我々が持つ五感が無くなるわけでもなく、喜怒哀楽を感じる感性が消滅するわけでもない
ただ、これらに起因した思考や感情の寸劇が劇的に起こらなくなるだけだ

つまり、目の前で誰かが傷つけが、心が痛む
しかし、その場を離れれば、それに関しては終わる

一般の人の場合どうなるか?
その場を離れると、頭の中で先ほど起こった出来事についての寸劇が始まり、その主人公を演じている

この余計な寸劇が湧き起こることが劇的にすくなる
それは、ある種静寂なかのいることになる

頭の中の寸劇が止むとき、人は静寂を堪能し始める

しかし、それでも我々がこの世界で生きていく限り、目の前でいろんな事がおこり、それに対して我々の喜怒哀楽は反応する

これらは、ここで起こることを受動的に見た場合だ
しかし、現実はこれと少しことなる

我々は、ここで生きるために、食し、眠り、会話する
我々は、自分から何か変化を起こし続けている

例えば、話すこと
何もない空間に、意味のある言葉を放り投げる

それは、摩擦となってその空間に影響を与える

その摩擦は、受け取る人によってよい物であったり、不快なものであったりする
しかし、いずれにせよそれは摩擦となって放たれる

身体を動かすこと、感じることも、聞くことも、見ることも、全て摩擦を生じさせる
良い悪い如何に関わらず

これが、この世界の有り様だ

生きている限り、我々は摩擦と生じさせ続ける
自分が良かれと思ってやったことも、摩擦として影響を他者にあたえる

貴方が、他者に摩擦を与えるのが嫌なら、動かなければ良い
しかし、それでも摩擦は起こる

なぜなら、貴方が動かなくても、向から摩擦が飛んでくるからだ

そう、この世界で生きると言うことは、摩擦を生じさせ、また摩擦を受けるということ
われわれが、ある種摩擦そのものであるということ

我々は、ここで生きる以上この摩擦から解放されることはない