2010年5月11日火曜日

覚醒へのアプローチ(2)

 

さて、今日はリトリートのもう一つの重要な要素「覚醒の一時的な体験」について


我々は、生まれるとすぐに外側の世界を体験し始める


というか、外側の世界の一部である「体」にはいる


そして、外側の世界を探検し始める


この外側の世界とは、現象の世界


原因と結果の世界であり、常に変わり続ける世界


物質(物)で満ちあふれている世界


この外側の世界で暮らすうち、我々は目に見える物を見るようになっていく


すなわち、「指し示すことの出来るもの」のみを見るようになっていくということ


例えば、「あそこにあるジュース」と言うとき、「あそこ」という場所があり、そこに「ジュース」がある


では、内側の世界とは、何であろうか?


内側には、実は2つの世界が存在している


一つは、皆さんがよく知る「知識、思考、感情」である


我々は、頭で何かを考える


色々な知識を頭にため込む


そして、喜怒哀楽、色々な感情を体験する


もう一方は、これらとは別な世界


そう、覚醒に向かう人がよく耳にする「真我(魂)、ハート(愛)」など


これら二つには共通する事柄がある


それは、これらを指し示すこことができないということ


貴方の知識そのものを指し示すことができないと言うこと


思考や感情を直接指し示すことができないといいうこと


例えば、知識は頭に蓄えられていると言われる


しかし、私が知っているイチゴ(笑)を、直接指し示すことができない


それを、他者が直接見ることはできない


これと同じように、真我も愛も、これを直接指し示されることができない


では、この内側の世界の2つの違いとは何か


それは、外側の世界に連動しているかいないかである


たとえば、悲しい映画を見たとする


私は、自分の中に「悲しい」という感情を持つ


同じように、これを見た彼女も「悲しい」と言う感情をもつ


2人の「悲しい」は、決して同じではない


各自が生きてきたバックグラウンドが違うが故、決して同じではない


しかし、この映画を通して、「悲しいという状態」について、同じような感情を共有することができる


これが何を意味するか


それは、外側の世界の事象に連動して起こる事柄であるが故、同じような感覚を共有出来るのである


これがあるから、人はコミュニケーションを取ることができる


「美味しそうなイチゴ」といったとき・・・


美味しそうが何か、イチゴが何かがお互いわかる


では、もう一方の「真我、愛」などの事象はどうか


これらは、外側の世界に連動しているものではない


故に、これを指し示す事が、非常に難しくなる


例えば、我々が言う「愛」


全ての人は、これを内側に持っている


しかし、我々が言う「愛」が、内側のどの状態であるか、貴方は知らない


そして、これがそうだと指し示す事が出来ない


これが、覚醒に向かう時の難関となる


この指し示す事が出来ない何かを、つかみ、我がものとしようとするのがリトリートである


マスターのエネルギーとともに居ることで、彼が指し示せないものを、指し示す事で、徐々に人はそれを

理解し始める


それを思い出し始める


この時の状態を表現すると・・・


貴方は、外側の世界という家の中にいる


しかし、内側の窓を見つけ、ここから内側を覗いている状態


これが進歩すると、貴方は窓を開ける


そして、窓の外を直接眺める


そこから流れてくる、歌を聴き、においや風を感じる


そして、人によっては、身を乗り出してこれらを感じ始める


しかし、貴方は依然家の中にいる


故に、一時的と言われる


覚醒は、覚醒したか、していないかのどちらかしかない


グレーゾーンは存在しない


貴方が、完全に家から出て、これを後にしたとき、貴方は覚醒している


しかし、家の中にとどまり、窓から流れてくるくるものを感じているとき、それは未だ覚醒の状態ではない


一時的な、体験でしかない


何故なら、貴方は依然家の中にいるからだ


しかし、この一時的な体験が、非常に重要になる


これを体験することで、人は新たな状態を味わい、さらなる深みへと向かう事が出来る


ただ、気をつけなければならないのが、この一時的な体験を、自分の状態を勘違いすることだ


その状態が永遠にあり、自分がそこへシフトした状態と、単に一時的にその香りをかいだことは、全くことなる


精神世界にはよく「私は××の体験をした」「他にも××の体験を・・・」とそれを人に認めさせようと躍起になっている人がたくさんいる


既に過去に過ぎ去った体験など、何の役にも立たない


今、自分がどういう状態にあるかが重要なのだから


一時的な体験とは、道を歩む上での「道標」だ


これを得ることで、内側の地図無き道に「道標」を持つことができる


この「道標」を頼りに、人は内側の暗闇を進む


道標を得ては進み、また得ては進む