2010年5月21日金曜日

引き延ばすこと

 
今日のお話は「引き延ばすこと」です。

さて、最近数日おきにメールを出しているのですが、何を話す?書くか非常に困るのです (^_^;

何か、自分の中で引っかかっているものがあると、それをトリガーにして書くのですが、それがない・・・

それで最近は、和尚の禅タロットを使わせていただいたます

これを1枚ひいて、そこからインスピレーション貰い書くようにしています

今日のカードは「引き延ばすこと」でした (^-^)

さて、この引き延ばすですが、我々は色々なことを引き延ばしています

良いに付け悪いに付け、ついつい明日にしてしまうのです

これを評して「今出来ないもは、永遠に出来ない」と言う言葉があります

引き延ばしてしまうと、ずるずると引き延ばし続ける事がおおいようです

何かをやろうと思い立ったら、思い立ったときにやるべきです

色々な障害が我々の前に現れます

「今これとやると、やろうと思っていたことが・・・」とか

「これをやるには知識が十分ではない」とか

色々です

では本当にやるべき事とは何でしょう

それは、どんどん後回しにしている事です

逆に言うと、どうでも良いことは、後回しにすると記憶から消えていきます

どうでも良くないこと、それは何かが引っかかっているので、後回しにしてもまた意識に浮上してきます

もし、意識上によく浮かび上がってくることで、後回しにしているものがあるなら、それを良く感じてみてく
ださい

それを、やるときっと大変なんです

それをやると、きっと自分の時間がそうとう割かれてしまううんです

それでも、浮上してくる

それに対する思い、何故それが何度も自分の内側に顕れるのか、それが貴方のどこから来るのか、それを感じてみてください

本当に必要なものは、何度でも浮かびかがってきます

満たされるまで、何度でも (^-^)

開花

 
今日は「開花」です

我々は、何故この世界にいるのでしょうか

私自身は、この世界にいる意味を見いだすことはできていません

見いだすことを手放してしまいました

何かをする為に、我々は、ここに来ている

何かをなす為に

実は、これは我々が持つ強迫観念です

何か、理由があるはずだと

そして、我々は、自分の都合のよい理由を見つけ出し、それに向かって何かをしようとし始めるのです

しかし、これは、自分自身とは全く反対の方向へと向かう事に他なりません

目的を持つ、それは、未来に何かを投影することですから

さて、この世界にいる意味が無いとすると、我々は一体何をしているのでしょう?

このことを、逆の言い方で表現すると・・・

目的を持たず、未来に目を向けないで在ることとは何か、です (^-^)

わかりますか

そもそも、目的とは、未来をという概念を作り出したマインドが、それをうまく利用する為に作り出したも
のです

予定していたとおりに事が運んだことなどありません

問題は、未来ではなく、今です

この世界にいる目的はありません

しかし、一つだけ、はっきりしていることがあります

それは、目覚めた状態で死ぬと生まれてこないということ

私は、この世界で生きることは、覚醒していようがいまいが大変だと思います

確かに、この世界を十全に楽しみたい

しかし、もう十分です (笑)

故に、転生しないようにさらなる深みを目指しているとも言えます

もう十分この世界は、堪能しましたから

そして、覚醒すると、生きることや死ぬことから解放されてゆきます

そして、再度無明を体験するために生まれては来ないことを理解するのです

開花、それは転生の終わりを告げるものです

ちなみに、昨日読んでいたOshoの本から

私は、毎日トラブルに見舞われている、内側は静かだが、外側では毎日トラブルが発生する

覚醒して以降、トラブルが起きなかった日は1日としてない
 

条件付け

 
今日のお話は「条件付け」です

我々は、気づかないうちに色々な条件付けをされています

そう、条件付けは押しつけれるものです

例えば、私は、日本人だ、アメリカ人だ

仏教徒だ、キリスト教徒だ

男だ、女だ

夫だ、妻だ

会社員だ、主婦だ、学生だ

などなど、色々な条件を身にまとっています

これ以外にも、道徳や行動基準などの条件付けもあります

では、これらの条件が付けられるとどうなるのか

 貴方は××なのだから、××をしてはいけない、とか

 貴方は××なのだから、××をしなければいけない、など

となるのです

身に覚えが、たくさんあると思います

条件付けとは、何かのラベルを貼ることで、それを盾に制限がひかれることをさします

我々は、生まれるとすぐにこれらを押しつけられ始めるのです

ここまでだと、「あ~そうかぁ」と危機感はまだ薄いと思いますが、根はもっと深いのです

最初押しつけられていた条件ですが、しばらくすると自分で条件を付け始めるのです

これが、大問題なのです

最初は、母親に「貴方はお兄ちゃんなのだから・・・・」と言われて、行動を制約されているが、そのうち
「僕はお兄ちゃんのだから、××をしなくちゃ」となる

「私は、主婦だから××を・・・」

「私は、夫だから××を・・・」

こうなると、自分から自分に対して条件を付け始めるからのだから大変です

さて、これがどんどん進んでいくと・・・

それを貴方は想像できますか?

それがどんどん溜まっていくと「貴方」ができるのです

今このメールを読んでいる「貴方」です

さて、貴方はこれを理解出来ますか

これを受け入れられますか?

自分自身の行動を、良く見てください

貴方の行動は、過去に誰かに言われたことや、自分自身で作り出した基準で動いていませんか

何度も繰り返す内に、無意識それらを行っている事に気がつけますか

本当の貴方自身が表面に現れる為には、この外側の条件付けの固まりが落ちる必要があります

貴方をくるんでいるこれらが落ちる必要があるのです

このことをスピリチュアルな世界では「貴方自身の死」と表現します

今行動や感情を司っている、条件付けでできあがっている(コンピューターのような)貴方がが死ぬと、
その内側の本来の貴方自身が顕れるのです
 
  
 

覚醒へのアプローチ(3)

 
さて、本日はアプローチの3番目

覚醒の状態に飛び込むです

先ずは、ちょっと復習から

先のメールに書いたように、覚醒にアプローチとして2つの事柄がある

・苦しみに繊細になり、自分が苦しんでいることに気が付く

・覚醒の状態を一時的に体験する

通常人は、自分が苦しんでいること自体に蓋をしてしまい、苦しんでいることを忘れてしまう

のど元過ぎればなんとらや・・・

これなどは、まさにそのこと

しかし、何世にも渡り苦しんでいると、いつかこれを見ざる得ない時がくる

これと正面切って対峙せざる得ない時がくる

この時から、人は道を模索し始める

道に入る前、そして道に入ると、色々な内的体験を重ねるようになる

この、内的体験は、一時的な体験である

何故なら、この体験は過ぎ去ってしまい、また以前の自分へと戻ってしまうから

故に一時的という

しかし、この体験は、我々が地図無き内側の探求の道標となる

この体験が、人に今まで味わったことのない、気持ちの良い状態があることを教え、人は、この体験を
するが故、今とは違う内的状態へと進んでいく

これらの状態を家にたとえるなら、家に窓あることに気が付き、外を見て

そして、窓が開くことに気が付いてこれをあけ、外の世界の香りをかぐ

しかし、未だ人は家の中にいる

さて、それでは、この後どうなるのか

それは、あなた自身が意を決して外に出るしかない

外に出て、今まで慣れ親しんだ家を後にするしかない

それは、誰かが行ってくることではない

ここが、瞑想をする事との違いとなる

リトリートなどで瞑想すると、今まで体験したことのない状態へと誘われる

マスターを通して、その香りを貴方はかぐことができる

より深くより濃密な香りがやってくる

そう、内側へと向かうことで、それは「やってくる」

しかし、家の外へ出ることは、「やってこない」

家の外へは、貴方が自分で出て行くしかない

これが、違いだ

これを、別な角度から書いてみる

我々は、1dayを通して、皆さんに内的状態を伝えている

座る瞑想、活動する瞑想、それらと我々の内側にあるエネルギー状態を皆さんに体験してもらう

我々を通して、何かが皆さんに向かい、それを皆さんが体験として、理解として受け取る

これによって、皆さんは一時的な体験、すなわち一瞥を得る

これを通して、我有りの状態を体験してもらい、それを深めることで、自分でその状態にいけるように
Workする

愛も同じ

これが、我々が行っている事

それは、皆さんがそこへ行く事が出来るようにすること

ここまでは、我々の体験と、我々を通して起こる何かによって、起こすことができる

もちろん、皆さんが、ハートを開き、我々に心を許すことで、それは起こる

そうして、皆さんは我有りや愛にたどる着く方法を学ぶ

しかし、この時点では、未だ人は家の中にいる

何故なら、これらの体験は一時的であり、必ず過ぎ去ってしまうからだ

そして、我々ができるのはここまで

覚者などがよく言う言葉で、「覚醒の淵まで連れて行くことができる」と言うのがこのこと

しかし、この淵に飛び込むことは、貴方しかできない

貴方を後ろから押すことは、誰にもできない

ここが大きな境目となる

貴方は、我有りの状態を知っている

その状態になることができる

あとは、その状態であることを、行うしかない

ここで注意していただきたいのは、その状態に居続けようと努力する事を指しているのではないというこ


この状態は、努力が止まると終わってしまう

ただ、その状態に留まることを決意しそこに行くだけ

これを指して、「貴方自身が、それそのもになる」と言う

最後は、貴方が自分自身で事を起こさなければならない
 
 

2010年5月11日火曜日

覚醒へのアプローチ(2)

 

さて、今日はリトリートのもう一つの重要な要素「覚醒の一時的な体験」について


我々は、生まれるとすぐに外側の世界を体験し始める


というか、外側の世界の一部である「体」にはいる


そして、外側の世界を探検し始める


この外側の世界とは、現象の世界


原因と結果の世界であり、常に変わり続ける世界


物質(物)で満ちあふれている世界


この外側の世界で暮らすうち、我々は目に見える物を見るようになっていく


すなわち、「指し示すことの出来るもの」のみを見るようになっていくということ


例えば、「あそこにあるジュース」と言うとき、「あそこ」という場所があり、そこに「ジュース」がある


では、内側の世界とは、何であろうか?


内側には、実は2つの世界が存在している


一つは、皆さんがよく知る「知識、思考、感情」である


我々は、頭で何かを考える


色々な知識を頭にため込む


そして、喜怒哀楽、色々な感情を体験する


もう一方は、これらとは別な世界


そう、覚醒に向かう人がよく耳にする「真我(魂)、ハート(愛)」など


これら二つには共通する事柄がある


それは、これらを指し示すこことができないということ


貴方の知識そのものを指し示すことができないと言うこと


思考や感情を直接指し示すことができないといいうこと


例えば、知識は頭に蓄えられていると言われる


しかし、私が知っているイチゴ(笑)を、直接指し示すことができない


それを、他者が直接見ることはできない


これと同じように、真我も愛も、これを直接指し示されることができない


では、この内側の世界の2つの違いとは何か


それは、外側の世界に連動しているかいないかである


たとえば、悲しい映画を見たとする


私は、自分の中に「悲しい」という感情を持つ


同じように、これを見た彼女も「悲しい」と言う感情をもつ


2人の「悲しい」は、決して同じではない


各自が生きてきたバックグラウンドが違うが故、決して同じではない


しかし、この映画を通して、「悲しいという状態」について、同じような感情を共有することができる


これが何を意味するか


それは、外側の世界の事象に連動して起こる事柄であるが故、同じような感覚を共有出来るのである


これがあるから、人はコミュニケーションを取ることができる


「美味しそうなイチゴ」といったとき・・・


美味しそうが何か、イチゴが何かがお互いわかる


では、もう一方の「真我、愛」などの事象はどうか


これらは、外側の世界に連動しているものではない


故に、これを指し示す事が、非常に難しくなる


例えば、我々が言う「愛」


全ての人は、これを内側に持っている


しかし、我々が言う「愛」が、内側のどの状態であるか、貴方は知らない


そして、これがそうだと指し示す事が出来ない


これが、覚醒に向かう時の難関となる


この指し示す事が出来ない何かを、つかみ、我がものとしようとするのがリトリートである


マスターのエネルギーとともに居ることで、彼が指し示せないものを、指し示す事で、徐々に人はそれを

理解し始める


それを思い出し始める


この時の状態を表現すると・・・


貴方は、外側の世界という家の中にいる


しかし、内側の窓を見つけ、ここから内側を覗いている状態


これが進歩すると、貴方は窓を開ける


そして、窓の外を直接眺める


そこから流れてくる、歌を聴き、においや風を感じる


そして、人によっては、身を乗り出してこれらを感じ始める


しかし、貴方は依然家の中にいる


故に、一時的と言われる


覚醒は、覚醒したか、していないかのどちらかしかない


グレーゾーンは存在しない


貴方が、完全に家から出て、これを後にしたとき、貴方は覚醒している


しかし、家の中にとどまり、窓から流れてくるくるものを感じているとき、それは未だ覚醒の状態ではない


一時的な、体験でしかない


何故なら、貴方は依然家の中にいるからだ


しかし、この一時的な体験が、非常に重要になる


これを体験することで、人は新たな状態を味わい、さらなる深みへと向かう事が出来る


ただ、気をつけなければならないのが、この一時的な体験を、自分の状態を勘違いすることだ


その状態が永遠にあり、自分がそこへシフトした状態と、単に一時的にその香りをかいだことは、全くことなる


精神世界にはよく「私は××の体験をした」「他にも××の体験を・・・」とそれを人に認めさせようと躍起になっている人がたくさんいる


既に過去に過ぎ去った体験など、何の役にも立たない


今、自分がどういう状態にあるかが重要なのだから


一時的な体験とは、道を歩む上での「道標」だ


これを得ることで、内側の地図無き道に「道標」を持つことができる


この「道標」を頼りに、人は内側の暗闇を進む


道標を得ては進み、また得ては進む