2016年11月2日水曜日

”覚醒” 生死感



生が終わる瞬間を 死 という  普通我々は、生(せい)を 生(う)まれそして死ぬことと理解している

死と生のとらえ方において、理解しなければならないポイントがある

我々は、この物質世界に生まれ、死が訪れる前のポイントにいると思っている

人々は、生が少なくなって、これがゼロになるとき、死がやってくると思っている

言葉や文字にして認識してはいなが、ほとんど全ての人が、生がなくなっていって、これがゼロになり死が訪れると理解してる

コップの水が、飲むほどに減っていき最後には空になるように、寿命が減っていくと理解している

しかし、これとは別に我々は生かされている という理解もある

小鳥が今日の夕食に虫を食べるように、彼女は生きることに人間のようにあくせくしなくても、神が食事を与えてくれる

これを、別な角度で現すなら、『人は死ぬまで生きる』 だ

人は、死ぬまで生きることができる  人は死ぬまで生かされている

この、生死感の違いは、我々が覚醒を目指すうえで非常に重要な違いにある

私の知る人々、主にスピリチュアルな道を既に歩んでいる者達には、死を恐怖としてとらえていない者も多い  それでも皆、痛いのは嫌だとは言うが(笑)

しかし、そんな彼らも、理由はわからないが、死に束縛されている感覚を持っている

死ぬこと自体怖いわけではない しかし、それでも尚 死の影響を、意識的である無意識であるかは別にして、何某かの影響を受けている

それは、何故か

それは、生が減っていくものだという理解を持っているからだ

あなたは、生がだんだん減り死がどんどん近づいているという理解を持っているが故、生のの残りが少なくなるにつれ、あなたは焦りだす

理由はわからないが焦り出す そわそわし出す 何かしなければと・・・

我々は、物質世界において、コップの水にしろ、石油にしろ それらは減っていきなくなるものだと言うことを、経験的にもっており、そのロジックが身体に考え方に染みついている

故に、人生をコップ1杯の水のように理解し、それはじょじょに減っていき、やがて無くなると思っている

そして、自分の人生の残り時間が少なくなることに怯え、恐怖をもち焦り出す
何か得体の知れに者に追われているような感覚を持つことになり、それがおびえや恐怖となる

死そのものに対する恐怖が消えたなら、生に対するそのとらえ方も変えねばならない
変えなければ、生の残りが少なくなるほど、あなたは怯えや恐怖に巻きこまれる

人生の残りが少ない 早く悟らねば  こんなことをしてる場合じゃない・・・ などんど

生を、『我々は死ぬまで生きる』と理解したとき、生きていることに対する恐怖も超えていくことできる

我々は死ぬまで生きることができる

それは、生きている過程がどうであれ、我々は死ぬまで生きるということで、例えば、ある時はお金も沢山あり、大きい家に住み、豪華な食事をたべるかもしれない、あるときは小さな家で質素な生活をしてるかもしれない

しかし、生を減っていくものと捉えることなく、死ぬまで生きられると捉えたとき、僕は僕の外側、つまり環境が変わっても、同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる

一人であろうが、パートナーといようが、どこに住もうが、僕は笑い、愛し、人生を楽しむだろう

しかし、生をコップ1杯の水のように有限と捉え時、そこには比較が存在する  昨日より1日分生が減ったと

この比較が、生の中に混ざり込む 生のとらえ方が比較を伴うものなのだから、必然的にその生には比較が紛れ混む

前は、大きい家に住んで外車にのって贅沢な食事を食べられたのに・・・ と
生のとらえ方に比較が入り込むが故、生きている間比較から逃れることができない

『人は死ぬまで生きられる』この理解には、比較が入り込まない
それ故、我々は我々を取り巻く環境がかわろうと、死ぬまで同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる


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