2016年10月6日木曜日

瞑想とは”それ”への絶えざる思惟である


OSHOが語る最初のマントラは「瞑想とは”それ”への絶えざる思惟である」だ。

私がこのマントラを聞いたとき感じるのは、”それ”という言葉のシンプルさだ。瞑想は最終的に”それ”へと向かう。”それ”のことを、我々は創造主と呼ぶが、”それ”という言葉の持つシンプルさが創造主というワードを凌駕する。我々が創造主と言うとき、それを”主(人型)”としてイメージするが、本来在るべき”それ”は、我々が思い描く個としての状態を持っていない。逆説的に言うなら、人間が持つ矮小さが、”それ”を人の次元まで引きずり下ろしたのだ。

我々は”それ”を感じることはできる、触れることも、出会うこともできるが、それを認識することはできない。それは常にそこに在り、我々はそれがいつからそこにあったのか、いつそれは消え去るのか知らない。

”それ”は、我々を構成しているものであり、”それ”が全てである。

「瞑想とは、”それ”への絶えざる思惟である」。この思惟とは、国語辞典で訳を見ると 物事の根本を心で深く考えることとあるが、ここで言う思惟とは感じ続けることである。もしあなたが”それ”を考えたなら、それは単なる思考であり、体験を伴わない情報でしかない。考えるとは、知性が行う比較と整合性、メリットデメリットについての考察と、それを踏まえた選択のことである。そして考えるとは、頭の中で行う 単なる思考 である。

”それ”は、考える対象ではない。それはかんじるのだ。あなたは”それ”を感じることで、初めて”それ”の体験をする。実際の体験だ。そしてあなたが”それ”を感じ続ける限り”それ”はあなたと共にある。


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