2016年10月15日土曜日

あらゆる行為の動機の停止、それがアーワハナウ・・・祈りだ


我々が行為するとき、そこには行為の元となるものが、動機が存在すし、その動機によっては、我々は行為する。行為が先にあるのではなく、行為の前に、そのもととなる動機が存在する。この動機を作っているものを「欲」という。「欲」とは、欲すること、何か自分が持たぬものを欲すること。欲するとは、自分が持っていたものを、無くさないように欲すること。欲するとは、自分から奪ったものに復習すること。

欲には、大きく分けて3つある。無いから欲する、手に入れたものを無くさないように欲する。そして無くしてしまったことをに対して、奪っていったものをにたいして欲する。それは嘆くことや悲しむことであり、また奪ったものへの復習や奪還であったりする。

欲するには3つのフェーズが在るが、日本語では3番目のフェーズにつては「欲する」という言葉では表現されない。

では、この行為の元となる動機を作る「欲」とは何か。「欲する」とはどのようにして起こるのか。欲するとは、欲する者がそこにあってはじめて成立する。欲する者がいるからこそ、欲することができる。この欲している者のことを「我」という。「我(欲する者)」があるからこそ、欲求(欲すること)が生まれてくる。

我は常にいう。我(わたし)の時計、我(わたし)の家、我(わたし)の車、我(わたし)の仕事、我(わたし)の時間、我(わたし)の体、我(わたし)の考え ・・・

我々は常に言い続ける、我(わたし)の・・・・、我(わたし)が・・・、我(わたし)を・・・、我(わたし)は・・・

これが全ての「欲」の源となり、全ての行為の動機となる。もしあなたが『我』を持たなかったら・・・。あなたが、我(わたし)の・・・、我(わたし)が・・・と言わなかったら、あなたに「我」がなかったなら、あなたは何かを欲するだろうか?

過去の教えでは「欲しないように」「求めないように」というが、それは「求めないようにする」ことや「欲しないようにするこ」ことではない。その先の教えが開示されていなかっただけだ。もしくは開示された情報が系統立てて開示されていなかったということだ。

あらゆる行為の動機を停止させるためには、動機を作り出してい仕組みを探求しなければならい。動機は、『欲すること』によって生まれ、この欲することは『我』があることによって存在する。

あらゆる行為の動機を停止する為には、『我』を明け渡さなければならい。あなたが「我」を明け渡せたなら、求める者が不在になり求めることが止む。それこそが、あらゆる行為の動機が停止するときだ。

そして、あなたが我を明け渡し時、そこには純粋な魂としてのあなたが現れる。我をあけわたした後、佛陀が自分をぶったとして認識するものが内側にいたように、そしてかれが魂のユニークさを持っていたように、イエスがそうであったように、あなたが我を明け渡した後、そこには純粋な個人としてあなたが存在する。

まずは、我を探求することだ。


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