2016年10月1日土曜日

OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 既知・未知・不可知


OSHOの究極の錬金術を読んで、気になったところを書いていこうと思う。数年ぶりの更新になるのかな・・・ (^_^;)  どのくらい続くのか、何回くらいアップできるのかはわからないが、気長につきあってください。

OSHOは言う「ウパニシャッドを読む為には、既知、未知、不可知を最初に理解するように」と、そして、「既知の領域は科学で、未知の領域は哲学で、不可知の領域が宗教に属する」と。

既に知られているもの、それを測定し法則を導き出そうとするのが科学であり、知ることができるがいまだ知られていないものを科学するのが哲学だ。では不可知とは何か? OSHOは言う「私の言う不可知なるものとは、出会うことはできるが、知ることの出来ないもの。それは感じることはできる。生きることができる。それと出会うことができる。が、依然として、不可知のままだ」と。

我々が瞑想を通して、探求を通して行こうとしているのは、まさにこの知ることのできない何かだ。
我々は、既知の海で彷徨ってきた。この物質世界にあふれるもの達、つまり既に知り得たものたちで心を満たそうとしてきたがそれは叶わず、人は次なる未知の領域に足を踏み入れる。しかしここでも人は心の平安を得ることが出来ず、最後の領域である不可知へと入って行く。そう覚醒の道へと入っていく。

今我々が提示している教えは、この不可知に向かう為の準備であるともいえる。OSHOは言う、既知、未知、不可知、この不可知が宗教にぞくすると。しかし正確には、我々は既知と未知を通して、自己に到達し、この自己そのもの、つまり自分自身を変容することで2元をを超え、この2元を超えたとき、そこで初めて正面切って不可知と向き合うことができるようになる。しかし、我々はそれでも不可知を知ることはできない。感じること、生きること、共にあることはできるが知ることはできない。2元を超えた後、我々は不可知を本格的に探求することになる。

因みにOSHOの言う「宗教」とは、既存のキリスト教や仏教などお金を儲けるための機関のことを指してはいない。純粋に自己をそして不可知を探求するものをさしている。


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