2016年10月4日火曜日

OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 属さない


何かに自分が属しているとき、人はどういう行動を取るだろうか。例えばキリスト教の人は、聖書について何か言うとき、キリスト教であるということに制約された表現になるし、内容もそうなる。逆にキリスト教徒が他宗教について語るとき、それでもキリスト教徒とういう制約から表現する。例えば、キリスト教と相対する宗教について、キリスト教の集まりの中で自由に発言することは難しいだろうし、そもそもキリスト教というメガネで全てを見ることになる。キリスト教徒という概念から全てを眺める。

何かを学ぼうとするとき、特に宗教ではなく覚醒について学ぼうとするときは、この制約を外さなければならい。

それは、宗教に限らず、各自が持っている制約(色眼鏡)を外さなければならない。今まで学んできたこともまた、一つの色眼鏡である。純粋に学ぼうとするときは、それすらも手放さなければならい。

制約の中から見るとき、そこに真実は見えない。


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