2016年12月24日土曜日

”覚醒” 意識すべきこと



覚醒のworkを行う上で、とても重要なことは、「自分は何のためにこのworkをしているのか?」と言うことに、しっかりと意識的になることだ。

我々が使う言葉は、非常に稚拙で直線的だ。

例えば、我々がリードする瞑想で「開いて」という言葉を使うが、この時、具体的に何がおき、何をしているのだろうか?

まず、そもそも「開く」と言うが、開くとは具体的にどういうことか?
例えば、我々が座り、この「開く」をリードする時、「鳥の声を聞いて」と言う。鳥の声を聞くとき、あなたは鳥の声に対して開く。もしあなたが鳥の声に対して閉じていたなら、仮に耳が鳥の声を捉えたとしても、それはあなたに届かないだろう。あなたが身近に体験できる、閉じると開くだ。

我々はできる限り、あなたがに、あなた方が日常体験している事象からworkに入る。これを行うことで、あなたは、言葉でなく「体験」としてそれを行うことが可能になる。

では、鳥の声を聞く(開く)時何が起こるのか?

次に我々は「鳥の声を内側に受け容れて」という。ただ鳥の声を聞くだけではなく、それが内側に入りやすい状態を整えるよう生徒を促していく。受け容れるという、受動的な状態から、それと「意識的に関わる」状態へと誘導していき、その後「それと繋がるように」と声をかける。

受け容れる(招き入れる)ことから、さらにより親密な状態になるよう、それらと意識的に繋がることを促す。

次に我々は、「それと一体になるように!」と声をかける。

それと繋がるとき、そこには我と声が存在する。そこには、自分と鳥の声との間に「境界」が存在する。これを越えていくために、「一体になるよう!」声をかける。あなたが一体になり始めると、あなたのエネルギー体は外側に向かって拡がりはじめ、あなたと他者を隔てている膜(ちょうど皮膚のあたりある)が溶け始め、あなたは一体になっていく。

この一体になる行為は、ある種、緊張を開放するworkでもある。どういうことか? そもそも自己を他者と区別する膜を持つと言うことが、緊張となる。そしてこの膜が存在することで、自分以外の何かに対して常に緊張することになる。この膜を溶かし自分以外のものと一体になる行為は、緩んでいく行為であり、それは人に心地よい体験を与える。

そして、これらの流れの中でもっとも重要なのは、『貴方自身がどんな状態であるか』だ!! 「鳥の声を聞いたとき」、「それを内側に招き入れたとき」、「繋がったとき」、「一体になったとき」、「弛緩したとき」、貴方自身がどうであったか!! これが一番重要だ。

さて、ここまで「開く」について書いたが、まず言葉はとても直線的だ。ここに書いたことが、並行に伝えられて、それを並行的に行えたなら、より効果的にworkを行えるだろうが、この次元も言葉もとても直線的で、「声を聞く」「招き入れる」「繋がる」・・・のように、一つずつ順番に伝え、順番に行うしかない。

そして、最初の問題に戻るが、「自分は何のためにこのworkをしているのか?」ということに、しっかりと意識的になることだ。

我々が行うべきは、自分自身の進歩(変容)だ。自分自身が進歩するとは、例えば、何かこういうことをすると、自分自身の状態が変わることに気がつき、それの状態に自分を変えていくのが進歩だ。
つまり、「開く」時、何をどうすると自分の状態がどう変わるかに意識的になり、自分自身の状態がより良くなる行為(方法)を見つけ、その方法を使って、常に良い状態に自分自身を変容さすことが進歩だ。

日々座るworkの時、日常、会社に行きながら行うworkの時、Retreatで我々がリードする時、あなた方は、自分が何をすべきなのかをしっかりと意識する必要がある。



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2016年11月14日月曜日

”覚醒” 何を目指しているのか



あなたが道に入り、workを続けるうち、あなたは自分が何をしているのかわからなくなり、自分がわからなくなっていることすら、わからなくなる

あなた方が目指すものは何か?

それは、貴方自身だ

感情や思考に絡め取られているあなたではなく、あなたそのものだ

自分が何を目指しているのか、しっかりと理解し意識しなければならない

頭の中のあなたの挙動に意識的になれたとき、そして今まで自分自身の挙動に無意識であったことに気がつき、あなが意識的に行動できたなら、あなたは自分自身として行動してる

我々がAzizとHoumanの教えに狂喜したのは、彼らが「それそのものを指し示していたから」だ

いまここに、更なる精度で貴方自身の無自覚さと貴方自身そのものが開示された

まっしぐらに、自分自身に向かいなさい


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”覚醒” 目覚めと進化



目覚め、つまり目を覚ますことと、本当の意味での進化は ある種別なものを指す 故に我々日本人の語感からするなら、目覚めと変容の方がイメージ的にピンとくるかもしれない

人の状態は、低いところ、つまり一般の人の状態で夢見の状態だ これは目は開いているが夢うつつの夢遊病者のような状態で、常に頭の中で何か考え事をしていて、目の前の出来事を見ているようで見ていない

この状態は、思考や感情に巻きこまれながら過ごす次元で 苦しみの次元だ

そして、彼らは皆マインドの私という仮面(ペルソナ)を被ってそれと一体化してる 例えば、僕は日本人だから、男だから、夫だから、会社員だから、課長だから・・・ そういった、誰かに教え込まれたこうあるべき自分像を私だと思い それと一体化している

2番目の状態は、1番目の状態が苦しいことに気がついた人が向かうところで、まず初めに、肉体とは別のエネルギー体としての自分に目覚めていく  頭の中に居るエネルギー体の自分、つまり意識としての自分を発見しそれに留まり、エネルギー体の手、足、身体を見つけそれと一体になる次元

この時、人は頭の中に思考や感情以外の「私」を発見しそれに留まることで、頭の中の「思考や感情」とは違うもう一つの「私」を得ることなり これにより、人は「思考や感情」ではない「私」に留まることで、初めて「思考や感情」から切り離されて、つまり騒がしさやネガティブな思考などの苦しみから切り離される体験を得、それと同時に自分自身に留まる穏やかさの体験を得る

この次元は、エネルギー体の自分を見つけそれと一体になる次元だ
そして、何故自分は苦しいのか、この苦しみはどこから来るのかなどの、心の側の探求、正確には、心の探究をするための下準備を行う期間でもある


この次元が、目覚めの次元だ  夢遊病者から、自分自身に留まり、思考や感情に巻きこまれない状態、つまり思考や感情に捕らわれないことで、自分の外側に起きていることを認識できる状態となる

それでも、人は未だ「マインドの私」と同化しいて、外側の出来事を、この「マインドの私」を通して知覚、認識している


3番目の次元  これは、既にエネルギー体それ自身になった人がおこなうworkだ このworkを始める時、その一番初めにすべきことは、頭のエリアのあなたが、自分自身を自覚し、なおかつ意志をもって行動できるかだ  たとえば、頭のエリアのあなたは、瞑想するとき、「よし、瞑想するぞ」と思い、瞑想を始めるが、実際にしていることは、足や手、胴体が座っているか、思考や感情に巻きこまれたいないか、それに外側の音に警戒したりして、そのうち深く入ると「ぼ~~~」としているのだが、そのこと、つまり頭のエリアの自分自身の挙動に気がついているかということだ あなたが、頭のエリアの自分自身の挙動に気がつけたなら、頭のエリアの貴方自身が座ることだ、くつろぐことだ

これができたとき、あなたは、あなた全体として初めて座ることができ、そしてくつろぐことができる

これは、あなたが3番目の次元のworkとして、常に行うべきものだ
我々の教えが導くのは、あなたが目指すのは、統合体としての貴方自身として生きることだからだ

さて、これとは別に、3番目の次元で行うべきもう一つのworkは、自分自身の変容だ
2番目の次元で人は、自分自身としての感覚を手に入れる つまり私というエネルギー的な身体を見つけそれ自身になるわけだが、それはあくまで自分自身になるだけで、状況は大きく変わっているわけではない

もちろん、無意識で夢遊病者のような状態から、自分自身になれたわけだからそれは、奇跡にも匹敵する変化ではある しかしあなたを取り巻く思考や感情、あなたが身につけ同化してるペルソナは、未だ変わらずそこにある

故に3番目の次元で行うもう一つのworkとは、貴方自身の変容だ

本当の救いとはどこにあるのか

それは、貴方自身が変容することで、あなたが不必要に世間から刺激されないようになると言うことだ

あなたが、常に何か会社に不満を抱いてるとする  もし、あなたの考え方や感じ方が本当に変わったなら、あなたは、今と同じように会社に不満を抱かなくなるだろう

他人、会社や世間も同じだが、これを変えようとしても変わるものではない
古より言われているように、外側ではなく、自分自身が変わらねばならい

自分の心の、精神の有り様に意識的になり、自分を無意識のうちに怒りや悲しみに向かわせる何かに気がつき、それを超えていかなけらばならない

それを探求していくのが、この次元の大いなるworkだ


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2016年11月2日水曜日

”覚醒” 生死感



生が終わる瞬間を 死 という  普通我々は、生(せい)を 生(う)まれそして死ぬことと理解している

死と生のとらえ方において、理解しなければならないポイントがある

我々は、この物質世界に生まれ、死が訪れる前のポイントにいると思っている

人々は、生が少なくなって、これがゼロになるとき、死がやってくると思っている

言葉や文字にして認識してはいなが、ほとんど全ての人が、生がなくなっていって、これがゼロになり死が訪れると理解してる

コップの水が、飲むほどに減っていき最後には空になるように、寿命が減っていくと理解している

しかし、これとは別に我々は生かされている という理解もある

小鳥が今日の夕食に虫を食べるように、彼女は生きることに人間のようにあくせくしなくても、神が食事を与えてくれる

これを、別な角度で現すなら、『人は死ぬまで生きる』 だ

人は、死ぬまで生きることができる  人は死ぬまで生かされている

この、生死感の違いは、我々が覚醒を目指すうえで非常に重要な違いにある

私の知る人々、主にスピリチュアルな道を既に歩んでいる者達には、死を恐怖としてとらえていない者も多い  それでも皆、痛いのは嫌だとは言うが(笑)

しかし、そんな彼らも、理由はわからないが、死に束縛されている感覚を持っている

死ぬこと自体怖いわけではない しかし、それでも尚 死の影響を、意識的である無意識であるかは別にして、何某かの影響を受けている

それは、何故か

それは、生が減っていくものだという理解を持っているからだ

あなたは、生がだんだん減り死がどんどん近づいているという理解を持っているが故、生のの残りが少なくなるにつれ、あなたは焦りだす

理由はわからないが焦り出す そわそわし出す 何かしなければと・・・

我々は、物質世界において、コップの水にしろ、石油にしろ それらは減っていきなくなるものだと言うことを、経験的にもっており、そのロジックが身体に考え方に染みついている

故に、人生をコップ1杯の水のように理解し、それはじょじょに減っていき、やがて無くなると思っている

そして、自分の人生の残り時間が少なくなることに怯え、恐怖をもち焦り出す
何か得体の知れに者に追われているような感覚を持つことになり、それがおびえや恐怖となる

死そのものに対する恐怖が消えたなら、生に対するそのとらえ方も変えねばならない
変えなければ、生の残りが少なくなるほど、あなたは怯えや恐怖に巻きこまれる

人生の残りが少ない 早く悟らねば  こんなことをしてる場合じゃない・・・ などんど

生を、『我々は死ぬまで生きる』と理解したとき、生きていることに対する恐怖も超えていくことできる

我々は死ぬまで生きることができる

それは、生きている過程がどうであれ、我々は死ぬまで生きるということで、例えば、ある時はお金も沢山あり、大きい家に住み、豪華な食事をたべるかもしれない、あるときは小さな家で質素な生活をしてるかもしれない

しかし、生を減っていくものと捉えることなく、死ぬまで生きられると捉えたとき、僕は僕の外側、つまり環境が変わっても、同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる

一人であろうが、パートナーといようが、どこに住もうが、僕は笑い、愛し、人生を楽しむだろう

しかし、生をコップ1杯の水のように有限と捉え時、そこには比較が存在する  昨日より1日分生が減ったと

この比較が、生の中に混ざり込む 生のとらえ方が比較を伴うものなのだから、必然的にその生には比較が紛れ混む

前は、大きい家に住んで外車にのって贅沢な食事を食べられたのに・・・ と
生のとらえ方に比較が入り込むが故、生きている間比較から逃れることができない

『人は死ぬまで生きられる』この理解には、比較が入り込まない
それ故、我々は我々を取り巻く環境がかわろうと、死ぬまで同じように笑い、同じように愛し、同じように心を痛めながら生きることができる


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”覚醒” 愛と結婚について



OSHO 錬金術 Ⅰより

私が考える限り、多くの人を愛せる人間は
愛だけで結婚することはないだろう
彼はもっと深いもののために結婚する

どうか私の言うことを理解して欲しい

もし一人の人が多くの人を愛するならば
その愛だけで誰かと結婚する理由がない
結婚しないでも多くの人を愛せるからだ
だから結婚する理由がない

我々は愛ゆえに、全ての人に結婚を強要する
あなた方、は結婚という枠の外で人を愛せないからだ
我々は不必要に、愛と結婚を一つに結びつけることを強要した - 不用意にだ

結婚とは、もっと深いもののために存在する
さらにより深いもののため - 親密さのため、「ぴたりと一つの状態」のため、一人では不可能な、しかし二人で可能なもののため、一体感、深い深い一体感を必要とするもののために

しかし、この愛に飢えた社会ゆえに
愛は、ロマンチックな愛から結婚に落ちる
愛は実際、結婚のための大いなる基礎に他ならない
愛は楽しみであり、遊びだからだ

もしあなたが愛のために誰かと結婚するなら
失望するだろう - すぐに楽しさは消え去り
新鮮さは消え失せ、退屈になる

結婚は深い友情、深い親密さのためのものだ
愛はその中に示されている
しかしそれは愛だけではない
結婚とはスピリチュアルなものだ

自分一人では進んでいけない多くの事柄がある
自分自身が成長するにしても、反応してくれる人物、自分自身を完全に開けるほどに親密な人間、彼、彼女が必要になる

結婚はまったく性的なものではない
私達がそれを無理やり性的にしたのだ
セックスはあるかもしれないし、ないかもしれない

結婚は、深いスピリチュアルな共感だ


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2016年11月1日火曜日

”覚醒” 思考の始まるプロセス



思考が始まるプロセスを理解する前に、我々が自分の思いを認識するプロセスについて理解する必要がある  例えば、私はイチゴが好きだとする  このイチゴが好きだという自分の思いを人はどうやって理解するのだろうか

理解のプロセスの順序を逆にしてみていこう  まず、一番外側、つまりあなたは声に出して「私はイチゴが好き」という では、この発声の前は?  あなたは頭の中で「イチゴが好き」という  では、その前は?

あなたの中には、言葉なる前の、言葉にならない「イチゴが好き」という思いがある この思いを我々は確認するすべを持たない  わかるだろうか?  我々の心の中に「イチゴが好き」というおもいがあっても、それを直接確認するすべを我々は持たない

よて、我々はそれを自分の外に出すことで、つまり対象物にすることで初めて確認することができる  心の中の言葉になる前の「イチゴが好き」という思いを、頭の中で言葉(声)にすることで、自分自身の外側に出すことで、それを対象物にすることで、あなたはそれを認識できる

頭の中で「私はイチゴが好き」と言うことで、あなたは初めて自分がイチゴが好きのだと認識できる

そして、これはほぼ自動的に行われている  何か思いが湧き起こると、あなたはそれを無意識に頭の中で言葉にする

これが思考の始まりだ

例えば、あなたが瞑想して静かな状態にあるとき、あなたのそばで車の音すると、言葉にならない「車の音だ」とい思いが湧き起こり、続いて自動的にそれは頭の中で「車の音だ」とい声になり、あなたは外で車の音がすることを認識する

この時、あなたの頭の中に顕れた「車の音だ」という声に反応して、あなたの内側に声にならない思いがわき上がる 例えば「うるさいなぁ~」とか、これが自動的に頭の中で「うるさいなぁ~」という声なる  そしてあなたはこれに反応した次の思いを・・・・

このようにして、あなたの思考が始まっていく


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”覚醒” 意識と無意識



意識と無意識の違いは何か?  その質において意識と無意識に違いは無い

では、意識的であるとは何か? それは周りの状態に注意がまんべんなく注いでいる状態だが、それは特定の強さを言うのではなく、相対的な意味合いにおいてより強くもしくは沢山意識的であることを指している

では無意識とは何か?  もし言葉道理意識がないとしたら、ひとは道ばたに倒れ昏睡状態にある しかし、我々が言う無意識とは、昏睡状態のことでなく、意識はあるが、それがとても弱い状態をさす・・・

正確にはそうではない、意識を仮に量的にあらわして説明するなら、無意識とは意識のほとんどを思考に向けてしまい、自分の状況や周りの状況に対して注意を払っていない状態だ

では、我々が日々行う自分自身に向かうworkにより何が変わるのか 我々が自分自身に向かうと、我々は思考から離れ自分自身に意識的になる  それは思考に向ける意識の割合が減っていき、自分自身や周りの状況に裂く意識の割合が増えることをさす

つまり無意識とは、意識のほとんどが思考に向けられ、自分自身や自分の行動、周りの状況を意識できない状態から、思考に意識を自動的に向けること、つまり自分自身や自分の周りに対し向ける意識の量が少ない状態から、自分自身に向ける意識の量を多くすることで、常に自分自身に意識的であるようにする

無意識とは、決して意識がないわけではなく、単に意識のほとんどを思考に向けている状態だ

またこれとは別に成熟という言葉在る  成熟とはよりその状態に深く慣れ親しむことで、意識的な状態に成熟すると、人はより少ない意識状態でも意識的でいることができる  昔は無意識になってしまう意識の量でも、意識的な状態に成熟してくるとより少ない意識量で意識を保てるようになる


意識的になるとは、意識が自動的に思考に向かってしまうことを自覚し、思考ではなく自分の状態等に意識を向かわせることで、より成熟してくると、使われてない意識は思考に向かうことなく、そこでただリラックスしている

この状態が日常的になると、あるときあなたの意識は、別の次元に根を下ろす  意識的な次元に根をおろす  あなたはいままでより、より軽やかに意識的でいられるようになる


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2016年10月30日日曜日

”覚醒” 画像を見ることと 今を生きること



通常人は、今を生きていないと言われる 何故だろうか?

一つは、思考や感情、各自が作り込んだパターンとの同化がある

もう一つ、特定の状況に言葉、つまり名称をつけうることで、それを見たり感じた入りしなくなる

例えば、夕焼けを見たとする

初めて見る夕焼けは綺麗で、あなたはそれに見とれるが、その状況の名前が「夕焼け」だと知る

次に、あなたが夕焼けを見た時、あなたは最初のようには見ない

「ああ・・・、夕焼けだ」という

夕方、空が赤く、お日様も赤く沈む光景を「夕焼け」として認識する
そう、あなたは夕焼けを見ない

あなたは、その光景を、自分の過去の情報と照らしあわせ、この景色は夕焼けだと認識する
もうあなたは、夕焼けを見ていない

目の前の美しい光景を見ていない

その情景を、記憶と照らして、これは夕焼けだと言う

例えば、あなたが初めて雪に触ったとき、その冷たさや柔らかさを感じ、感動したり驚いたりする

しかし、2回目白いそれを見かけたとき、あなたは頭の中の情報と照らして雪だと認識する
もうあなたは、雪を見ていない

あなたは、頭の中の情報をみている

あなたは今を生きていない、あなたは頭の中の情報を生きている


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2016年10月26日水曜日

”覚醒” 自分自身とそれ以外のもの



我々は、人の層をおよそ3つに分ける 一番外側が肉体で、肉体は5つの感覚器官を使って情報を感知する 五感には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚があり、このうち触覚は全身にあるが、触覚を含めた5感は頭部に集中している

次が、思考、感情、比較、判断およびこれらと対になる記憶の層だ 我々が日々住み着いてるのがこの層だ ここでは、Inputから過去の記憶が呼び覚まされ、それに基づいてどう対処するか考え、メリット・デメリットを考慮して判断が行われている。

記憶
・日常起こったことを、映像と その時の感情として記憶している
 また、日常起こったことに対し、どうすべきであったかという記憶も持つ
・親や学校の先生、地域の人々、宗教などによって教え込まれた情報
 例えば、親は敬え、年上は敬え、人には親切にしろなどの情報
・特に衝撃的な情報は、強烈な記憶として残り、これをトラウマという


Input
・身体からきた五感の情報(映像、音、味、匂い、感覚)
・五感から誘発された映像と感情の記憶
  例えば目と耳が子供がわめく情景を捕らえ、それによって先日の通勤
  時横で母親に抱かれた赤ん坊が泣き叫んでいたの思い出すと同時に
  その時の不快な感情も思い出す など
・頭の中で考えていた思考がInputになる場合もある(ほとんどがこれ)

思考
・Input(映像と感情)をベースに、どう対処すべきかを考える
・この時、過去の出来事を参考に対処法が練られる
 何故なら、人は知らないことを参考にできないからだ

判断
・思考で考えられたメリットデメリットから、対処法を決定する
・この決定も過去の出来事を参考にして決められる
 個々も同じで、人は知らないことを参考にできないからだ


ここで、問題となるのが、思考と判断の基となるものだ 我々は何を基にして思考し判断しているのか考察してみよう? 例えば、商談先に行く途中、目の前で少女が転んだとする 頭の中で何が起こるだろうか

・女の子に手を差し伸べていると商談の時間に遅れ仕事を逃す可能性
 がある
・僕は男の子で日本人でキリスト教徒だ 目の前のかわいそうな人を
 ほっては行けない
・泣いてる子をほっていくのは、良くないことだ
などなど

これらは全て、過去 誰かから教えられて事や、本などから得た知識、または自分人生で体験したことで構成され、各人固有のパターンを形成している。 因みに、このパターンは、各人によって異なっている、つまり人によって、行動パターンが異なということだ

さて、本題に戻るが、我々の思考や判断の基となっているがこのパターンであり、このターンは、過去の出来事によって構成されたある種の反応パターンだ つまり人は、過去の反応パターンの中で生きているということだ

これには2つの問題がある 1つは人が常に、つまり生きているほとんどの時間を過去の中で生きているということ それは、人が過去の中で生きていることに気がついていないとも言える 2つめは、あなたがこれと同化していると言うことだ あなたがこれと同化してるが故、あなたはこれに気づけない それどころか、肉体すら同化している

あなたは、肉体と自分の間にギャップを作り、そして思考や感情との間にもギャップを作らなければならない ここで注意しなければならないのは、このギャップの作り方だ 例えば肉体の痛みを感じ、これは肉体が痛いのだと起想しそう感じるのは、実際の半分でしかない ここが要点になる 肉体が痛がってるのを認識すると同時に「本来の自分」を感じて初めて隙間ができる 肉体が痛がってるの感じ認識しつつ、自分自身に留まり自分のエネジーを感じそこに留まることで、あなたは初めて、自分と肉体の痛みが別物だと体験的に理解する事ができる つまり本当に溝ができたのだ

思考や感情も同じである 何かに怒るとき、悲しむとき、それは本当に貴方自身なのだろうか? それは、過去の出来事に起因してはいないだろうか いつも同じような状況で怒らないだろうか、悲しまないだろうか・・・  それらを、「これは私ではない」と起想し認識し、同時に自分自身に留まり自分のエネジーを感じれたなら、あなたに大いなる恩寵が降り注ぐだろう


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2016年10月25日火曜日

”覚醒” 過去と未来と あなたの今



過去とは何か 過去とは、記憶の中にある情報

あなたが、体験した何かの記憶 それは、映像や感情で構成されたもの
その時の情景と感情をワンセットにして記憶として保存している

それは、体験の場合もあれば、誰かに教わったことや、親や先生に無理矢理たたき込まれたことや、本やテレビやネットで知ったことや、そんなこととその時の感情が記憶としてのこっていて、それを過去という

ではあなた方が言う未来とは何か
未来とは、過去の情報を元に想定した、これから起きるかもしれない、あくまで過去を元にしたイメージだ 人は、知らないことを想像することはできない 故にあなたが思い描く未来は、既に知っている過去を元に想像している そこに知らない情報は一切含まれていない

では、あなたにとっての今とは何か
あなたにとっての今とは、「過去の情報を元にした思考パーターン」との同化だ あなたは、今を生きていない あなたは過去と同化している あなたは、今起きていることを過去の情報に照らし合わせてなにがしかの未来予想をして、それを考えたり話したりする あなたは今起きていることを見ない あなたは、「過去の情報を元にした思考パーターン」を通して、今に接する 人は、過去に捕らわれている

例えば、あなたが「これは私の考えだ」といった時、あなたは確実に「過去の情報を元にした思考パーターン」と同化している 何故なら、あなたが言う私の考えとは、過去の情報の焼き増しでしかないからだ あなたは過去の情報の焼き増しを「私の考えだ」という この時、あなたと「過去の情報を元にした思考パーターン」との間には、1mmの隙間もない あなたは、「過去の情報を元にした思考パーターン」の情報と自分とは異なるものだと夢にも思っていない

もしあなたが「これは、過去の情報から想定したものです それは過去の情報を元にした思考パーターンから作り出したものです」と言ったなら、なたは少し過去と距離を取れている

そしてさらに「これは、”過去の情報を元にした思考パーターン」から想定したものだ”ということを知っています」といえたなら、さらに距離は離れるだろう

この時あなたは、過去に捕らわれない今を垣間見ることができる


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2016年10月23日日曜日

”覚醒” 気づき と 巻きこまれること2



OSHO 究極の錬金術Ⅱから抜粋


あなたが空腹を感じていたとする
その時、ただそれを否定し、あなたの体を苦しませる
そして、自分自身はただ、静かで穏やかであること
そしてその時、身体が空腹を感じている、と起想しているのだ
その感覚を抑圧してはいけない
空腹を感じないように強いてはいけない
身体は空腹だ、とあなたは認知している
が、それと同時に身体にこう言いなさい
「僕は今日、この空腹の感覚を満たすつもりはない
身体よ、空腹でいなさい、苦しみなさい
今日は、いつも用意されているおきまりのパターンになるつもりはないからね
僕は傍観者でいるんだ」と

------- 抜粋終了


わかるだろうか、身体が発する空腹や痛みなどの感覚と自己を切り離す
そして、これは空腹の延長線にある「食べたい」という欲求と自己を切り離すことになる
感覚、感情、欲求などと、自分を切り離す

切り離しながら、意識的に自分自身に留まり、自己の穏やかなエナジーを感じそこに留まる

これができた時、感覚、感情、欲求などが、自分では無いことを意識的に体験できる


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2016年10月21日金曜日

”覚醒” 気づき と 巻きこまれること



気づくこと 巻きこまれること

「気づくこと」とは、自分の”今”の状態に意識的になると言うことで、それは例えば、喘息で呼吸がしにくく酸素不足で辛いとか、風邪で鼻がズルズルで頭が痛くて咽が痛いとか・・・、そんな自分の状態に気がついていることであるが、それはとても表面的な気づきでしかない

では、いったい何に気付かなければならないのか?

『喘息で呼吸がしにくく酸素不足で辛い』状態のさらに奥を探ってみよう  まず、『喘息で呼吸がしにくく酸素不足菜状態』とは、血中の酸素が不足している状態で、マラソンでゴールしてそのまま何か作業をするような感じで、体を動かすことが非常に大変になる

こんな状態であるため、自分のキャパが狭くなり、とても怒りやすくなる  ちょっとしたことですぐにイライラする  そして、すぐにイライラし怒る

つまり、怒りに巻きこまれるのである

この時、自分は怒りに巻き込まれていると気づいていることで、巻きこまれることから距離をとる
つまり 巻きこまれてはいるが 自己に留まることで正気を保っている そんな状態だ


これとは、別のもう一つの方法

「呼吸ができず、体がだるく、酸素が足りないことでイライラしている自分」に気がつく
もう少し詳しく書くなら「肉体の不快感」と「イライラしている(心の)状態」に気がつく

気がつけたなら、この状態を感じ気がついたまま、エネルギー体の自分を感じ、エネルギー体の自分の静寂さや心地よさに平行して気づき感じていく

これは何をしているかというと、肉体の不快感や心の不快な状態と、自分自身を切り離す といことをしようとしている
不快感に巻きこまれるのでなく、これを不快感として感じそして意識することで これらを切り離し、尚自分自身の心地よい状態を感じそこに留まることで、これらに巻きこまれない状態、つまり切り離された状態を作る

体や心の状態を意識したまま、エネルギー体の自分に留まりその平穏さを享受(感じる)する

怒りや悲しみの渦を 私ではないものとして認識し それに気づきつつ 自分自身に留まるとき 我々はその渦のなかで自己を保つのではなく 渦と自分自身を別なものとして認識できるようになる

それはつまり、巻きこまれることからの離脱である


これの簡単なExercise

体の状態が悪いとき、つまり痛いとか気持ち悪いとかお腹がとてもすいているとか・・・
その時、これらは体が発している情報で、自分自身の状態ではないと思うこと
次に、これらの痛みや不快感を感じつつ、エネルギー体の自分自身にとどまりそのエネジー(心地よさや静寂)を感じる
これができた時、痛みや不快感とエネルー体の自分自身は別物であることが体験的に理解できる

断食をして、とてもとてもお腹がすいたと感じるとき、その空腹感に巻きこまれるか、それとも それは体が発する信号で自分自身はこれとは異なるエネルギー体であると理解し 自分自身に留まり空腹感を感じつつも、自分自身の穏やかなエナジーを享受できるか そして食べたいというマインドから離れて穏やかさの中に留まれるか  そこが分かれ道となる


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2016年10月16日日曜日

死は祝祭



よく、死は祝祭と言われ、祝、踊り、喜べと言われる

覚醒したものが死ぬとき、何故祝祭なのか

この苦しい現世から離脱できるから?

肉体という制限を脱ぎ捨てられるから?

輪廻転生から解放されるから?

・・・

・・・

・・・



覚者が死ぬとき、彼は肉体を脱いで神と抱擁する



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欲望とは


欲望とは、欲すること、望むこと

それは、実際どのような形であなた方の生活に顕れているだろうか?

欲望とは実際にはどういうものなのだろうか?

欲望とは、自分が持たないものを望むこと、持ってるものを失わないように望むこと、失ったものを取り返そうと望むこと  こう言えば、人は、そうだそうだと理解する

では、自分の実生活のなかで、それはどのように顕れているか?

だれか、それを探求しているだろうか?

我々がすべきことは、欲望とは「自分が持たないものを望むこと、持ってるものを失わないように望むこと、失ったものを取り返そうと望むこと」と理解することではない

これらが、実際自分の日々の生活のなかで、どのように顕れているかに気がつかなければならい 自分は実際どうようにそれを行っているか気がつかなければならい

貴方が、自分の実際の生活の中で「自分が持たないものを望むこと、持ってるものを失わないように望むこと、失ったものを取り返そうと望むこと」をしている瞬間に気がついたなら、本当の探求が始まる


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2016年10月15日土曜日

あらゆる行為の動機の停止、それがアーワハナウ・・・祈りだ


我々が行為するとき、そこには行為の元となるものが、動機が存在すし、その動機によっては、我々は行為する。行為が先にあるのではなく、行為の前に、そのもととなる動機が存在する。この動機を作っているものを「欲」という。「欲」とは、欲すること、何か自分が持たぬものを欲すること。欲するとは、自分が持っていたものを、無くさないように欲すること。欲するとは、自分から奪ったものに復習すること。

欲には、大きく分けて3つある。無いから欲する、手に入れたものを無くさないように欲する。そして無くしてしまったことをに対して、奪っていったものをにたいして欲する。それは嘆くことや悲しむことであり、また奪ったものへの復習や奪還であったりする。

欲するには3つのフェーズが在るが、日本語では3番目のフェーズにつては「欲する」という言葉では表現されない。

では、この行為の元となる動機を作る「欲」とは何か。「欲する」とはどのようにして起こるのか。欲するとは、欲する者がそこにあってはじめて成立する。欲する者がいるからこそ、欲することができる。この欲している者のことを「我」という。「我(欲する者)」があるからこそ、欲求(欲すること)が生まれてくる。

我は常にいう。我(わたし)の時計、我(わたし)の家、我(わたし)の車、我(わたし)の仕事、我(わたし)の時間、我(わたし)の体、我(わたし)の考え ・・・

我々は常に言い続ける、我(わたし)の・・・・、我(わたし)が・・・、我(わたし)を・・・、我(わたし)は・・・

これが全ての「欲」の源となり、全ての行為の動機となる。もしあなたが『我』を持たなかったら・・・。あなたが、我(わたし)の・・・、我(わたし)が・・・と言わなかったら、あなたに「我」がなかったなら、あなたは何かを欲するだろうか?

過去の教えでは「欲しないように」「求めないように」というが、それは「求めないようにする」ことや「欲しないようにするこ」ことではない。その先の教えが開示されていなかっただけだ。もしくは開示された情報が系統立てて開示されていなかったということだ。

あらゆる行為の動機を停止させるためには、動機を作り出してい仕組みを探求しなければならい。動機は、『欲すること』によって生まれ、この欲することは『我』があることによって存在する。

あらゆる行為の動機を停止する為には、『我』を明け渡さなければならい。あなたが「我」を明け渡せたなら、求める者が不在になり求めることが止む。それこそが、あらゆる行為の動機が停止するときだ。

そして、あなたが我を明け渡し時、そこには純粋な魂としてのあなたが現れる。我をあけわたした後、佛陀が自分をぶったとして認識するものが内側にいたように、そしてかれが魂のユニークさを持っていたように、イエスがそうであったように、あなたが我を明け渡した後、そこには純粋な個人としてあなたが存在する。

まずは、我を探求することだ。


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2016年10月8日土曜日

マインド そして貴方の状態


我々は、マインドという言葉を使うが、それをもう少し詳細に見てみよう。

例えば、目の前で子供が転んだとすると、この時我々の内側で何が起こっているのだろうか? まず、何かが目のまで起こっている事に気がつく。その後起こっている事に対し、いくつかの事が一瞬の間に起こる。

まず、過去の同じような記憶をたどり、その時自分行った行動や反省点を踏まえどうするのが良いかを思い出す。これとは別に例えば今の状況「お得様の所に行く途中であること」などを思い出す。
これとは別に、例えば仏教徒として、一人の良い人としてどうするのが良いのか等既に頭の中に作り込まれているプログラムを思い出す。もちろんこれ以外のあれこれを思い出す。

その後これらの情報を比較し、検討し、自分が起こす行動を決める

もちろん、この中には、ハートフルな側面も加味されるだろう

これらを整理すると
 目のまで起きている状況に気がつく
 色々な状況を記憶から持って来る
 比較判断する
 実行する

大まかに書くとこんなもんだろう

では、ここにおける何が問題となるか?

それを述べる前に、もう一つ、これは目の前の状況に気づけた状態を想定している。場合によっては、貴方は考え事に夢中で目の前で起きた上に注意を払わないかもしれない。

では、何が問題となるのか!!

それは、貴方が気がついて判断するまでの間に「色々な状況を記憶から持ってきて比較判断する」ことだ。言葉で書くとこのようになるが、要は、過去の記憶や、自分が属する集団(宗教、会社、家族内の立ち位置などなど)、こうすべきだという教え込みなどから、自分の行動を判断していることだ。つまり、本当はどうしたいかではなく、こうすべきだ、こうあるべきだ、こうした方が良いという、何か自分の内側にある思いのようなものを元にしてることだ。

こう書くと、あなた方はその通りだと納得するだろう。

しかし、本当の意味で何が問題なのか理解していない。例えばRetreatの時私の話を聞きながら、またはこのブログを読みながら、あなた方は頭の中で、私が話していることや書いていることを、自分が持つ「こうあるべきだという思いのようなもの」と比較して聞いている。そして、あっているとか、納得できないとか、なるほどとか思っている。

あなた方は決して「このブログに書いてあることは、私のこうあるべきだという思い(マインド)と一致しない」とは言わない。
あなた方は、「それは、間違っている」という

これはどういうことか?
あなた方は、それほどまでに、思考パターン(こうあるべき私)と同化している。

我々が、あなた方に何かを伝えるとき、まさにこれが問題となる。

我々が、あなた方は「まず、起きたことに気がつき、その後色々な状況を記憶から持ってきて比較判断するが、この記憶から持って来て比較判断する(Mind)が問題」だと言うと、とても素直に「その通りだ」というが、そのまさにその時、貴方がその通りだ言うその時、貴方はまさに「色々な状況を記憶から持ってきて比較判断して「その通りだ」と言っているのだ。この事に気付かせるのが非常に難しい。

これが、情報としての理解と、体験としての理解の違いだ


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2016年10月6日木曜日

人格(パーソナリティ)と個性


人格とは、人が持つ色々な側面に対応する顔だ。例えば、父親、母親、子供、社長、課長、平社員、日本人、仏教徒、彼氏、彼女・・・ それぞれに人は、個別の顔をもつ。この個別の顔のことを人格という。

では、この人格をもう少し掘り下げて見てみよう。例えば、あなたが会社で部下と接しているとき、あなたはどんな態度だろうか?部下に自分の言うことをきかせなければならないし、級も上なので、上司として対応しているだろう。しかし、その後社長に仕事の話をしに行く時はどうだろうか?

人格と簡単にかたづけてしまうが、それぞれの顔の時、それに付属する思考パーターンや、態度、プライドなどがある。父親の時の顔・言葉遣い・考え方・態度、部下に対するときの顔・言葉遣い・考え方・態度、級友と会っているときの顔・言葉遣い・考え方・態度、などなど、人はとても多くの人格(顔・言葉遣い・考え方・態度など)を持っている

そして、これらは、成長する過程で他人から教え込まれたり、自分の体験から身につけたり、本やパソコンなどから仕入れた情報の集積で構成されている。

部下の時(社長に会うとき)はこうする、上司の時(部下と相対するとき)はこうする、夫の時はこうする・・・・、あなたはとても沢山のパターン毎の 我 を持っている。

これに対し、個性とは不可分なものをさす。個が有する性質のことだ。これは、ユニークさのことだ。ここでいうユニークさとは、我(エゴ、人格)を超えたとき、素に私として存在するときに有する個性のことだ。これはユニークさだ。このユニークさは同じものが2つとしてない。例えば、佛陀、キリスト、OSHO、Aziz、Houman皆ユニークだ。

個々に、それぞれの味わいが在る

そして、各人が己のユニークさで、世界に反応する。

佛陀は佛陀のユニークさで、キリストはキリストのユニークさで、OSHOはOSHOのユニークさで、AzizはAzizのユニークさで、HoumanはHoumanのユニークさで、世界に反応する。

個性(ユニークさ)とは、我としての私を超えて、純粋な「Me」であり「ただ在る」時に顕れる。
OSHOは、人格を分離と表現し、個性を不分離と表現する。


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無我について


無我について、OSHOが言及している箇所があるので、抜粋します。

何世紀も経って、希に誰かが「無我-エゴなし」、一人のブッダ、一人のイエスになる- だが、誰かが「無我」になったといのは、その人が消えてしまった、と言う意味ではない。

実際には、初めてその時、その人は存在する- 真正に、実在そのものの中にしっかりと根付いて- 彼はもうエゴではない。

そうなるには、異なる根っこから栄養を取ることだ。エゴとは偽の現象だ- ただの現れであり、リアリティーではない。

それは実在に根ざしていない- ただの夢、想念、ただの精神構造にすぎない。

エゴの中にあればあほど、 あなたは存在から離れていく。

エゴにエネルギーを注げば注ぐほど 真正でなくなっていく。

そうすれば、あなたは偽物になる-実在的な嘘に。


空っぽになること、無になること、谷のようになることについて私が話すのは、「そのにエゴはない-が、あなたは在る」という意味だ。

それは、こういうふうに言わせて欲しい。

「私は在る」という表現を私は使う。

だがそれは、エゴが消え去り、ただ純粋な「在ること」が残る、と言う意味だ。

「私」はもうそこになく、「在ること」がそこにある。

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そして、我々は、これに「Me」を追加する。

「私というエゴ」を超えて、「在ること」がそこにあるとき、これを認識している「Me」がそこに存在すると。



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瞑想とは”それ”への絶えざる思惟である


OSHOが語る最初のマントラは「瞑想とは”それ”への絶えざる思惟である」だ。

私がこのマントラを聞いたとき感じるのは、”それ”という言葉のシンプルさだ。瞑想は最終的に”それ”へと向かう。”それ”のことを、我々は創造主と呼ぶが、”それ”という言葉の持つシンプルさが創造主というワードを凌駕する。我々が創造主と言うとき、それを”主(人型)”としてイメージするが、本来在るべき”それ”は、我々が思い描く個としての状態を持っていない。逆説的に言うなら、人間が持つ矮小さが、”それ”を人の次元まで引きずり下ろしたのだ。

我々は”それ”を感じることはできる、触れることも、出会うこともできるが、それを認識することはできない。それは常にそこに在り、我々はそれがいつからそこにあったのか、いつそれは消え去るのか知らない。

”それ”は、我々を構成しているものであり、”それ”が全てである。

「瞑想とは、”それ”への絶えざる思惟である」。この思惟とは、国語辞典で訳を見ると 物事の根本を心で深く考えることとあるが、ここで言う思惟とは感じ続けることである。もしあなたが”それ”を考えたなら、それは単なる思考であり、体験を伴わない情報でしかない。考えるとは、知性が行う比較と整合性、メリットデメリットについての考察と、それを踏まえた選択のことである。そして考えるとは、頭の中で行う 単なる思考 である。

”それ”は、考える対象ではない。それはかんじるのだ。あなたは”それ”を感じることで、初めて”それ”の体験をする。実際の体験だ。そしてあなたが”それ”を感じ続ける限り”それ”はあなたと共にある。


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2016年10月4日火曜日

OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 属さない


何かに自分が属しているとき、人はどういう行動を取るだろうか。例えばキリスト教の人は、聖書について何か言うとき、キリスト教であるということに制約された表現になるし、内容もそうなる。逆にキリスト教徒が他宗教について語るとき、それでもキリスト教徒とういう制約から表現する。例えば、キリスト教と相対する宗教について、キリスト教の集まりの中で自由に発言することは難しいだろうし、そもそもキリスト教というメガネで全てを見ることになる。キリスト教徒という概念から全てを眺める。

何かを学ぼうとするとき、特に宗教ではなく覚醒について学ぼうとするときは、この制約を外さなければならい。

それは、宗教に限らず、各自が持っている制約(色眼鏡)を外さなければならない。今まで学んできたこともまた、一つの色眼鏡である。純粋に学ぼうとするときは、それすらも手放さなければならい。

制約の中から見るとき、そこに真実は見えない。


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OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 言葉


言葉  我々は、意思の疎通を行うのに言葉を使うが、言葉はどれほどに意志の疎通ができるか考えたことはあるだろうか。そもそも言葉とは何か?言葉とはイメージを貼り付けた文字の羅列だ。だからよくシンボルといわれる。ここでこのイメージが問題になる。例えば僕がリンゴと言うときそれは、赤く酸っぱい植物の実をイメージするが、人によっては緑色のリンゴかもしれないし、リンゴ飴をイメージする人もいるだろうし、リンゴがたわわに実った木をイメージする人もいるだろう。

言葉とは、非常に粗い情報の伝達手段だ。先に書いたように同じ言葉でも、それを聞く人、使う人によって、その言葉に貼り付けているイメージが違う。言葉とはそもそもそういうものだ。だから言葉だけで何かを伝えようとしても、肝心なものがさらさらと流れ落ちてうまく伝わらない。

我々が使う情報の伝達手段は、大きくわけて、文字、声、Bodyランゲージだ。文字は例えばメールだ。では声と文字との違いは何か。そこには声の大きさ、抑揚などを使って表情を持たせることができる。例えば文字で「了解」と書いた場合は、文字通りOKととる。しかしけんか腰で「了解」と言ったときは、けっして納得してない「了解」だし、語尾が上がる「了解」なら本当に?という疑問符を伴った了解だ。

これに、Bodyランゲージが加わるとさらに、さらに表情が豊かになる。しかしそれでも尚、言葉は非常に粗い情報の伝達手段だ。そもそも言葉に貼り付けいているイメージが人によって異なるからだ。同じ言葉使っても、人によってそれの解釈が100%一致することはあり得ないからだ。それでも我々はこの粗い伝達手段である言葉を使うことでした情報を伝えることができない。

これが、言葉について、まず知っておかなければならない事柄だ。これを知った上で、我々が伝えようとしていることをどうやって受け取るかが、あなた方の課題となる。

では、我々が言葉を使って何かをシェアするとき、あなた方は何を受け取る努力をしなければならないのか。言葉には、意味(イメージ)があるが、このイメージの整合性を、つまり意味の理解を深めようとするならあなた方はポイントとをずらすことになる。例えば私が腕を上げ指さしてこれを見なさいと言った時、あなたが私の指先を見たら要点を見逃す。指が指し示すものを見なければあなたは何も受け取れない。これがどういうことか?

我々が扱うものは、目に見えないものだ。例えば、自分自身、つまりエネルギー体の自分、意識、マインド、自我、ハート、愛、etc・・・。それらは目に見えない、よってそれを直接指し示すことができない。何故ならそれを指し示しても、そこにある何かをあなたは見ることが出来ないからだ。我々は矢印のごとく、目に見えない何かを指さし、それに気づけと言い続ける。我々が使う言葉は矢印のようなものだ。だから我々の言葉を見てはいけない。我々の言葉が指し示す何かを見、感じたとき、あなたは何かを得ることが出来る。


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OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 聞き方


OSHOは言う、聞き方には、知性で聞く、感覚で聞く、存在で聞く 3つの方法があると。

OSHOは聞き方を3つに分けて表現した。最初の知性で聞くとはどういう聞き方を指しているのだろうか。通常我々が会社などでおこなう聞き方はこの知性で聞く方法だ。もちろん感覚で聞いたり、存在で聞くこともあるが、その大半はこの知性で聞く方法だ。知性で聞くとは、即ち論理的に聞くということで、筋が通っているか、メリットデメリットはどうなっているか、道筋は間違っていないかなどをチェックしながら聞くことで、これを違う角度から表現するなら、自分の意見と相手の意見を戦わせているとも言える。自分の意見を相手に理解させ受け容れさせせようと躍起になっている。それは戦いであり、自分以外を信じていない、自分以外を疑い否定する事だとも言える。そしてこれは、単に情報でしかない。そこに体験が存在していないからだ。

2番目の聞き方は、感覚で聞く。それはハートを通して、感覚を通して聞くことだ。それは頭を使って聞くのではなく、感覚を使って聞くことで、音楽を聴く場合などがこれに当たる。音楽はそれが奏でる旋律を感受性で捕らえて初めて聞くことができる。もし、音楽の構成を考えたりしたなら、あなたはそれを聞くとがでいない。そして感受性で聞くとき、あなたは初めてそれを体験することになる。感受性で聞くとは、音楽を聴くことを自分に許し、音が内側に入ることを、それが内側に拡がり満ちるのを許すことで、この時初めて聞くという体験をする。もしあなたが会社で相手の気持ちや思いをくみ取りながら話を聞けているなら、あなたはハートを通して、感覚を通して相手の話を聞いている。言葉が伝えるのもではなく、その裏側にある、気持ちや、思いや、相手の誠実さなどを感じ受け取っているなら、あなたは感覚で聞いている。

3番目は存在で聞くことだ。あなたは、あなたの全存在で聞かなければならない。しかしあなたは、自分の全存在を知らない。そこに問題がある。そして問題と言うなら感覚を通してく聞くことにも問題がある。そもそも人は、感覚で聞くことが非常に難しい。何故ならどれが思考で、どれが純粋な感覚かを理解していない。それ以前に純粋な感覚で聞くことができない。何故なら、あなたが感覚を通して聞くとき、あなたは自分のマインド(我)というフィルターを通して感じるからだ。なので、さらに高度な存在で聞くというのは、相当に難易度が高い。OSHOは簡単に存在で聞くと言うが、あなたは自分の存在を理解できるだろうか。ましてやマインド(我)を通さない状態のピュアな自分を体験できるだろうか。
故にOSHOは、別の入り口を提示する。それは信じるということ。ウパニシャッドを読むときは、そこに書かれていることを、つまり自分が知らない未知なることが書かれていてもそれに対して開いて受け容れなさいという。
私的に3番目の状態を表現するなら、マインド(我)を脇に置いて、それに開いて、それを信じて、それが伝えようとする言葉の裏側を、それが指し示すものを見なさいと言う。マインドを脇に置くとは、自分が既に蓄えている情報と比較しないということで、それは2元を脇に置きなさいということ。ハートを開いてそれを信頼し内側に受け容れると言うこと。そして知性と感性を総動員して、言葉の裏側にあることを全身全霊で感じ受け取ろうとする。

しかし、ここまで書いて思うのは、ウパニシャッドは、既にあるレベルに到達したものにしかその真意は受け取れないと暗にOSHOは言ってるようにも思える。

マインドと純粋な自己を理解していて、尚2元をマインドを超えており、純粋な感受性で、つまり一つの存在として本を読みなさいと言っているように聞こえるは私だけだろうか・・・

しかし、ウパニシャッドを読む読まないにかかわらず、頭(知性)で聞く、ハート(感性)聞く、信頼で聞くという、この3つの表現は、我々が本から学ぶとき、Retreatなどで学ぶときに役つだろう。

もちろん、本に書いてあること、私がRetreatなどで話すことの正当性を確認する必要はある。しかしそれが済んだなら、信頼できると判断したなら、理論は脇に置いて聞かなければならない。言葉を通して何を伝えようとしているのか、その裏側に何があるのかを感じなければならない。そのためには、自分が知らないこと、未知なることでも、それを恐れずに心を開いて聞き、受け容れなければならない。何故なら、既に道に入っているあなた方は、未知なる世界を歩いているのだから。

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2016年10月1日土曜日

OSHO 究極の錬金術 Ⅰ を読んで 既知・未知・不可知


OSHOの究極の錬金術を読んで、気になったところを書いていこうと思う。数年ぶりの更新になるのかな・・・ (^_^;)  どのくらい続くのか、何回くらいアップできるのかはわからないが、気長につきあってください。

OSHOは言う「ウパニシャッドを読む為には、既知、未知、不可知を最初に理解するように」と、そして、「既知の領域は科学で、未知の領域は哲学で、不可知の領域が宗教に属する」と。

既に知られているもの、それを測定し法則を導き出そうとするのが科学であり、知ることができるがいまだ知られていないものを科学するのが哲学だ。では不可知とは何か? OSHOは言う「私の言う不可知なるものとは、出会うことはできるが、知ることの出来ないもの。それは感じることはできる。生きることができる。それと出会うことができる。が、依然として、不可知のままだ」と。

我々が瞑想を通して、探求を通して行こうとしているのは、まさにこの知ることのできない何かだ。
我々は、既知の海で彷徨ってきた。この物質世界にあふれるもの達、つまり既に知り得たものたちで心を満たそうとしてきたがそれは叶わず、人は次なる未知の領域に足を踏み入れる。しかしここでも人は心の平安を得ることが出来ず、最後の領域である不可知へと入って行く。そう覚醒の道へと入っていく。

今我々が提示している教えは、この不可知に向かう為の準備であるともいえる。OSHOは言う、既知、未知、不可知、この不可知が宗教にぞくすると。しかし正確には、我々は既知と未知を通して、自己に到達し、この自己そのもの、つまり自分自身を変容することで2元をを超え、この2元を超えたとき、そこで初めて正面切って不可知と向き合うことができるようになる。しかし、我々はそれでも不可知を知ることはできない。感じること、生きること、共にあることはできるが知ることはできない。2元を超えた後、我々は不可知を本格的に探求することになる。

因みにOSHOの言う「宗教」とは、既存のキリスト教や仏教などお金を儲けるための機関のことを指してはいない。純粋に自己をそして不可知を探求するものをさしている。


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